青い空と白い雲が感動的に見える日。
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少し混乱したのでブログを綴ってみることにする。文章を整えるのがうまく出来ないので今日は乱文のまま載せることにする。
何に混乱しているのかよくわからないけど、時折こういうことになる。末期症状になると、青い空と白い雲を見ただけで感動して泣きそうになる。17歳の少女モードである。いや、これは14歳か?
混乱し、混乱が晴れた後、妙に透明になり、そういった時にスケッチブックを広げてメモを取り始めると、今までとは違った境地が覗く。
何日頭を捻って、どうしてもクリアにならなかった事柄が、「ああなんて空は青いんだ」とアホウのように涙を流した後には、するすると氷解していく。
これは、降りてくるとか、発明したとかいうものではなくて、やっと迷路から出れたとか整理できたとかいう感覚。部屋の片付けと、執筆をする上での閃きは似ている。
というわけで、今日は閃いた事柄を大事にしつつ、色々と片付けをしよう。
これは、物語を0から1にする作業ではなく、1を2とか3へと前進させるのでもなく、1を1万とか100万へと躍進させる作業であり、あるいは別の単位へと相転移させるような作業である。
創作の過程で、こういった時間を何度取れるかによって、作品の質は変わってくるはずであろう。
『サポーターをめぐる冒険』も、梅田の漫画喫茶で、課長島耕作を一気に読み、その後街をブラブラと散歩しているときに得られた閃きがなかったら、後ろの3章は表現できなかった。そして、あそこがなかったら、やっぱり普通の本で、努力賞だったのかなという気もする。
ブラジル本を書いている中で、この「青い空白い雲タイム」は何度か訪れている。恐らく3回か4回。3巻については、今日青い空なので、ここは大丈夫。しかし4巻についてもどこかで2回くらい青い空が訪れないとうまくいかないような気がする。
書き進めるのと、本を発行していくのと、平行するのは非常に難しい。しかし不可能だとは思ったが、一応可能であることもわかった。ただし、人のペースではうまくいかない。こっちのペースに付き合ってもらうほうが時間的な効率はいいのかもしれない。
ぼくはまともな社会人ではない。タイムカードをがちゃりと入れて、次にタイムカードを入れるまではキッチリと働くというわけにはいかない。それを求めると、やはり青い空モードが遠ざかる。
そういえば、体調管理が上手くなってきた。苦手な夏も、苦手な冷房もうまく対処できるようになってきた。
可愛い子供の育児は、どれだけ可愛かろうと非常に大変なのだが、それすらも慣れてきた。
時は進んでいく。そして、終わりの時も徐々に見えてくる。
何のために生きてるのか。
自分の作品を可能な限り世の中に出すため。
何故作品を出したいのか。
なるだけ多くの人に共感して欲しいため。
何故共感されたいのか。
共感されたいのではない、何かに共感することは最大の安らぎであり、エンターテイメントである。それを提供したいだけだ。
どうして提供したいのか。
そういう人との付き合い方が一番しっくりくるからだ。ぼくはなるだけ多くの人と友達になりたい。それだけなのかもしれない。
作品を出して、妻と一緒に子供の成長を見守る。
友達と時々酒を飲んだり、釣りをしたりして遊ぶ。
多分ぼくの人生はそれだけで終わる。
それだけで充実しているからだ。
創作は苦しいが、苦しくない生活には満足できないのだとしたら、それはマゾヒズムなのか。マゾヒズムは、生物にとっては本質的なものなのではないかという気もするが、勉強不足なので正確には表現できない。
サディズムは不自然だと思う。生きていく上で不要だから。獲物をいたぶる必要はない。さっさと喰えばいい。
マゾヒズムは役に立つ。生きるというのはある種の理不尽な忍耐の上に成立しているものだから、マゾヒズム的な境地に立てることは生きる力を得るということでもある。
現状としては、このような認識を持っているのだが、どうなんだろう。
こういうのは、劇作家の友人と語ると朝までコースなんだけど、お互い家庭もあって、子供もいるから、そういう時間もすっかりなくなってしまった。
語りたい友達と語る時間は、強引にでも作るべきなのかもしれないな。
そうじゃないと、人生が孤独の方に舵を切っていく気がする。孤独じゃないはずなのに、孤独を感じるとしたら、それは不自然なことであまり良いことではない気がする。
疲れるからとか、お金がないからとか、消極的な理由を持って、孤独の方に進むべきではない。
実際お金は足りないんだけど、新しい衣服を買うことよりも優先すれば何とかなるだろう。
細い糸をたぐり寄せて、太い糸をより合わせる。そして、縦横に糸を織り込んでいくことで、テキストは作られる。
テキスト、テキスチャーというのは元来は織物という意味なのである。
作品を作っていくという意味での織物作りは今何とか軌道にのりつつある。もちろん、それが売れて、生活が成立するかどうかはまた別の次元の話である。
一方で、人間関係の織物を作っていくという仕事は、昔に挫折したままだ。バスケットボールチーム、それを一生ものにしようと考えたのだが、いくつも無理があったし、いつの間にかぼくに主導権がなくなってしまった。
ぼくの理想が伝わらなかったのもあるし、理想が定まりきっていなかったのもある。みんな若かったのもある。
もう人生は折り返しているかもしれない。でも、だからこそ、この先さらに刺激を受けられるような、人間関係を織り込んでいくことは大切なことかもしれない。
ただねぇ、ゲンロンカフェみたいな活動がしたいのかというとそういうものでもない。サロンみたいなのもちょっと違う。人脈作りなんておぞましいものも嫌だ。
ただ、お金持ちになってから何かをしようと思ったら、いつまでも何も出来ないし、そもそもお金持ちになれるかどうかもよくわからないのである。
まぁともかく、取り組んだ時間の割りには、今日は仕事が進んだ。15時間、机に向かってもビタイチ進まないこともあるのだから、今日は上々である。
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