絶好調からの絶不調 2016年6月21日


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昨日は久しぶりに良い感触であった。
十分に心が通った文章が、十分な量かけた。

それなのに今日は一転して調子が悪い。
朝起きた時からどうにも不調であった。心身共に不調。

こういった波が何に由来するのかさっぱりわからない。
昨日調子が良かった理由もよくわからないし、今日駄目な理由もよくわからない。

理不尽であるが、その理不尽と付き合わないといけない。
サーファーみたいなものだ。波があるなら、波を見極めるべきだ。

もうちょっと予算があると気分転換もダイナミックに出来るのだが、今年に入ってからは全然駄目だ。
もっと楽しく、もっと自由に、もっと自分のやりたいことをやっていたいのだけど、どうもそういう風にはいかない。

文章を書くのが最もやりたいことのはずなので、その点はいいのが、もっと色々な刺激が欲しいんだろうな。

ぼくは刺激を求める依存体質の人間だ。

もう少し胃腸が頑丈だったらアルコール依存症になっていただろうし、タバコを吸い始めたら二度とやめることはないだろう。
危ないお薬をやればきっと楽になるし、創作も捗るだろうと思うが、周囲に地獄をみせなければいけないし、早死にもするだろう。
それ以上に、精神不安定の波がさらにきつくなるのが我慢ならない。

ギャンブルも駄目だ。
全財産突っ込んでも、それでも満足できないだろう。
ギャンブルを趣味にしているような人は、ある意味ではそこまでギャンブルにはまらないからやっていられるのだろう。

それでも全部滅茶苦茶にしてやりたいような日は多い。
この世に存在するものが、何もかも全て吹き飛んでしまえばいいのに。

何も望まないから 何も求めないで欲しい
でもそれじゃ物足りないから
何もかもを望んで欲しい

などという、中学二年生がノートの切れ端に書き込むようなことが頭を横切るような夕暮れはやばいぜ。

今ぼくは対話を求めている。
落ち着いて成熟した大人ではなく、未成熟だけど可能性を秘めて、それを表現したいと望んでいるような子供と対話したいらしい。

若い叫びを聞いてみたい。
表現したいという叫びを。
どうやらぼくがやっていきたいことは、自分が表現していくことに加えて、誰かが表現することを補助するようなことらしい。

そういう意味じゃ、劇作家をやっている友人は羨ましいな。
若い叫びと向き合う時間が十分にあるし、打ち上げやら何やらで深く話すことも出来るから。

ぼくの仕事はとても孤独だ。
誰の声もぼくには届かないし、ぼくの声も誰にも届かない。

いや、声は届いているのかもしれないが、深い森にかき消されているのだろう。

今とても良い兆しがある。
時代がオーバーラップしているのだ。

二年前の今日は、日本対ギリシャの試合の後、ぼくがナタールを発った日だ。

ああ、あのナタールだ。
あのギリシャ戦があったところだ。
ピカチューと一緒に声の限りを尽くした日だ。

フェイスブックに過去の投稿があがってくるから、まるで過去が追いついてきているような気持ちになる。

ブラジルの本なんかこのタイミングで誰が読むんだという疑問はあるし、だからこそぼくの孤独はより深まっていく。
でも、あれほど熱い経験はなかったのだ。恥ずかしげもなく言うが、あれが30を越えてから訪れた青春そのものなのだ。

いま、ユーロもみれないし、Jリーグの試合にもいけないし、NBAファイナルまで見逃した。
友達とも遊べないし、飲みにもいけないし、釣りにも、鳥を探しにも、海に潜りにもいけない。

個としての満足度は極めて低い。
一体全体、ぼくは幸せなのだろうか。

そのくらいまで賭け金を吊り上げてでも、ブラジルのことやJリーグのことは書きたいし、そのくらいしないとぼくのような未熟者には表現がしきれないのだ。

このへんまでくると、最後にポジティブな落ちを付けないと文章は商品にならない。
しかし、このブログは商品としての文章を書いているのではなく、自分のために書いているので、そういったお化粧はしない。

鬱屈も自分である。
自分と向き合うしかない。


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