バスケットボールとサッカー、どちらが面白いスポーツなのだろうか。
これは結論が出ない問いであると同時に、3秒で答えが出せる問いでもある。
「人によって違う」
そういう意味で、非常に不毛な問いである。と同時に、この「はとのす」で考えていきたい大きなテーマの一つでもある。
ぼくは、このブログを通して、日本のスポーツ文化が、プレイヤーやファンが幸福になることにより貢献できるようなあり方を考えていきたいと思っている。その中で、「バスケvsサッカー」という問いを立てることは非常に都合がいい。
「バスケはつまらない。」と「サッカーはつまらない。」への反論。
サッカーファンにバスケの話をすると「バスケは得点が入りすぎるからつまらない」と言われることがある。一方で、バスケファンにサッカーの話をすると「サッカーは点が入らなくて、引き分けが多い退屈なスポーツ」と言われることがある。
だから、一方のスポーツを支持するというわけだ。しかし、この回答は「無知」に基づいている。本気でサッカーやバスケを探求した上で、つまらないという結論を出した人がどれだけいるだろうか。
観たことがないけど、何となくの印象でつまらないという人もいる。バスケは得点が入りすぎるから駄目だという人は思い出して頂きたい。スラムダンクを読んでいて、点が入りすぎてつまらないという印象があっただろうか(何故か、バスケ嫌いの人もスラムダンクは読んでいることが多い)。
バスケは得点は入りやすいが、決して簡単には取れない。優れたディフェンダーがいるチームに対しては、エース選手が1on1を仕掛けても成功する確率は、3~4割程度のものだったりする。
そう簡単には得点はできない。楽な得点など一つもない。顔を歪めて、必死になって、ギリギリの限界まで肉体を駆使して、一つのゴールを奪い取っていく。それを延々と積み重ねていく。過酷で激しいスポーツだ。
その中で、相手のディフェンスをあざ笑うように軽々と得点を重ねていく超越者が稀に生まれる。マイケル・ジョーダンが、神=人を超えた者と称される所以だ。
残り時間20秒。1点差で負けている。ボールがエースに託される。決めれば勝ち、落とせば負け。尋常じゃないほどのプレッシャーが襲ってくる。
エースが攻めてくる!!必ず止める!! ディフェンダーの目に炎が宿る。エースは研究され尽くしている。どういうオフェンスのパターンがあるかもわかっているし、その日の調子も全て知られている。
こういった場面では焦ってオフェンスをしない。ある程度時間を使ってじっくり攻める。エースがゆっくりとドリブルをし始める。
バスケットボールのラストシーンは常に劇的だ。競った試合では、最後の1秒まで何が起こるかわからない。最後に何が起こるにしても、感動して涙を流してしまうことも多い。非常にエモーショナルなスポーツだ。
点が入りすぎてつまらないなどと、1998年のブルズvsジャズの最終戦を観た後で言う人がいるだろうか?
さて、サッカーは得点が入らないからつまらないという人もいる。確かに得点シーンのみをハイライトと見れば、退屈かもしれない。
しかし、サッカーの面白さって得点だけではない。得点を取るためには戦術上の駆け引きがあり、数え切れないほどの1対1の争いがある。サッカーの試合は、ゴールシーンどころか、キックオフのずっと前から始まっている。
どういった選手を集めて、どこに配置して、どういう監督を呼んで、とチーム作りの時点から面白い。サッカーチームには美学がある。勝てばそれでいいということはない。
スペインでは、スペインらしい「良いサッカー」をして勝利しないと、たとえ勝ってもボロクソに批判をされるらしい。一方で、たとえ負けても美しいサッカーをすれば賞賛される。
サッカーの特徴はオフェンスが有利ではないことだ。通常は4人のディフェンスに対して、フォワードは2人。8人のディフェンスブロックに対して、5,6人で攻めることになる。
特に大切な試合ほどディフェンスは堅くなる。状況は停滞することが多い。全身全霊を掛けて、ゴールを守り抜く指名に燃えているディフェンスを破壊することは非常に難しい。
しかし、完璧に見えたディフェンスが崩される一瞬がある。例えば、ピルロが素早くターンをして、前を向き、足を一振りした瞬間に勝負が決まることがある。
シャビがイニエスタにボールを当て、リターンパスをダイレクトで蹴り込んだ瞬間。密集していたディフェンスの合間を縫って、メッシにボールが届く。その瞬間、堅牢な要塞は音を立てて崩れ去る。
ここで重要な点がある。メッシが要塞を崩した瞬間だけが面白いシーンではないということだ。
映画にたとえるとわかりやすい。ロッキーの試合のシーン、KOシーンだけを観たとして、その映画が面白かったかどうかの批評ができるだろうか?
ロッキーが戦うための背景をよく知り、周辺の人間ドラマを見ながら、孤独な戦いへと挑んでいく1人の男に深く共感する。それが出来るからこそ、ロッキーは面白い映画なのだ。
同じように、サッカーもハイライトだけでは語れない。ゴールが決まったことは重要だが、ゴールを決めるまでも同じように重要だ。相手のディフェンスを崩すために、選手達は全力で考え、戦い抜いている。
それを感じられたならば、サッカーは点が入らないから退屈だとは思わないのではないだろうか。サッカーには、チーム作りや、チームの背景文化、戦術などの面白い要素もある。
「サッカーは点が入らないから詰まらない」
こんなことを言っているうちは、スポーツへの感度が低いと思われても仕方がない。
サッカーのようにバスケを、バスケのようにサッカーをという時代
バスケとサッカーは遠いスポーツだ。人数も違うし、フィールドの広さも違う。サッカーでは作戦タイムは1度しかないが、バスケにはたくさんある。最大の違いは、手を使うか、足を使うかという点だろう。
手を使うバスケでは、ボールを自在に操ることができる。そのため、プレイの成功率が高い。かなり計算したプレイができる。立ち位置やパスは数cm単位の精密さを持っている。アメリカンスポーツでは、確率と期待値を考慮した上で、戦術を選択するような要素が強い。
だから、アメフトにもバスケにもタイムアウトがあって、十分に考える時間がある。「選択肢1は80%で期待値5、選択肢2は30%の成功率で期待値5.5。相手は恐らく選択肢1で来ると予想しているはずだから、選択肢2でいこう。」というように思考する時間がある。
一方で、サッカーでは足を使うスポーツだ。足は、手ほど器用に動かすことはできない。そのため、プレイの正確性は犠牲になる。足で蹴飛ばしたボールがどこへ飛んでいくかは本人すらもよくわからない。
結果は、神のみぞ知る。
ヨーロピアンスポーツにはそういう傾向があるようだ。イングランド発でサッカーとルーツを共にするラグビーは、ボールが楕円形であるためどこへ飛んでいくか誰にもわからない。
そして、サッカーではタイムアウトがない。そのため、選択肢についてゆっくり考えることはできないし、仲間に言葉で伝達することも難しい。
だから、最終的には感じ合うしかない。サッカーでは、1人で局面を打開することはできない。マラドーナやメッシの5人抜きみたいな出来事は例外中の例外だ。
11人の選手達の動きは、決めごとによってある程度規定されている。しかし、最後の最後で重要になるのは「感性」であり、「感じ合う」ことだ。
チームを作るまで、フィールドに送られるまでには高度な計算がある。しかし、最後には選手の技術・体力・感性だけが試される。思考を超えて、感じられるか、感じ合えるか。理屈を超えた面白さがサッカーにはある。
ところで、今はバスケのようにサッカーをするのが流行っている。FCバルセロナが築いたパスサッカーだ。ショートパスを繋ぎ、ディフェンスを崩していく様は、バスケットボールのそれを思わされる。サッカー選手の技術が向上し、足でもミスなくボールを扱えるようになってきた時代だからこそ生まれた戦術だ。
バルサは明確にそういうサッカーをしている。バルサのカンテラ(寮)では、サッカー選手とバスケットボール選手が共同生活をしている。そういうことも関係しているのかもしれない。
ドルトムントも、走って繋ぐサッカーをしているし、日本でも風間監督のフロンターレがそういうサッカーを目指している。
バスケやハンドボールのようにサッカーをプレイするというのは、今や一つの大きなトピックになっている(もっとも、バルササッカーは終わったなどと言い始める人も出てきているが)。
サッカーのようにバスケをするというのは、ぼくが最近考えていることだ。サッカーほどではないにせよ、バスケでもよくオフェンスが停滞する。攻め手がなくなり、ボール回しをした挙げ句苦しいシュートを撃たされるという場面がある。
そこを「閃き」で切り裂いていけるプレイヤーがいる。それが、ジェイソン・キッド、リッキ-・ルビオ、スティーブ・ナッシュのような選手だ。レブロンやカリーもそういう選手のような気がしている。
キッドはわからないが、ルビオとナッシュはサッカーも上手い。一方で、デロンやクリス・ポールにはサッカーらしい「閃き」は感じない。
もう一つ。バスケ選手のパス能力を測る場合には、アシスト数やアシスト/ターンオーバーの比率が使われる。平均アシスト数が8で、AT/TOが3.5だったら良いガードと言っていいだろう。
一方で、サッカー選手のパス能力は、アシストでは計れない。シャビ・アロンソという世界的なパサーがいるが、2011-12年のアシスト数は9で7位タイ。一方で、クリスティアーノ・ロナウドは12で4位タイ。
数値だけで評価すると、ロナウドのほうが良いパサーということになってしまう。しかし、レアル・マドリードで最も重要なパスの起点はシャビ・アロンソであり、シャビ・アロンソを経由したボールがあって始めてチームが活き活きと機能する。
重要な点はこれ。サッカーでは、アシストにならないパスの質が評価される。優れたパスは、敵が全く予想していなかった意識のスキマのようなポイントに飛んでいく。魔法のようなパスだ。
メスト・エジルが右を向いて、走り込むサイドバックにパスを出そうとする。しかし、不思議なことにパスは左方向に飛んでいく。そのボールの着地点に向かって、クリスティーアノ・ロナウドが猛烈な速さで駆け込んでいく――
言語化が難しいのだが、ディフェンス側の「よし守るぞ!」という意識をすり抜けていくようなパスが存在する。それは直接アシストにならないことのほうが多いから、目立たない。しかし、サッカーにおいては非常に大切なパスだ。同時に、バスケにおいても有効なのではないかと思っている。
こういう類いのパスを考える際に、この本はヒントになる。ムダに見えるパスが全くムダではない。
キッドもそういうパスを出す選手だ。トップから45度に落とすだけなのに、ボールに魔法がかかっているように感じることがあった。
……サッカーのようにバスケをするというこのアイディアについては、ぼくの思いつきなので非常に精度が低い。しかし、面白いテーマだと思っているのでじっくりと考えていきたい。
こうやってバスケとサッカーをテーブルの上に並べて考えるのはとても面白い。偏見に基づいて、片方だけしか楽しまないのは持ったいないことだと思う。
比較・対照することで見えてくることがある。このブログでは、バスケvsサッカーという不毛な問いを解決していく形で、この魅力的な二つのスポーツを考えていきたい。