チェックしているブログで気になる投稿があった。それは、バスケットボール指導者に向けた提言のような内容だった。ぼくは、8割方賛成できる内容だったのだが、炎上したような状態になってしまった。その是非はさておき、ブログとコメント欄でのやり取りを何度も読んで唸ってしまった。
バスケットボールの育成はどうあるべきなだろうか、と。
話題の記事はこちら。
子供を教えている指導者にどうしても言いたい想い | バスケットボール会議室 | スポーツナビ+
まずは記事の内容を要約する。
「子供にまず楽しいってことが、一番上に来るようにどうか指導してもらいたいです。どうしても日本には古来からの慣習があるのか、まず苦労や努力があってその先に栄光が来るという考え。日ごろからの激しい練習に耐えたものだけが、その先にある栄光を勝ち取るもんだと。確かにそうですが、それって子供のうちから必要ですか?」
著者は前提となる目的として、「栄光」を置いている点を押さえて頂きたい。
そして、日本が国際社会で真の勝者になるためには「ファンダメンタル(基礎力)」が重要かどうかという議論が、繰り広げられている。
ファンダメンタルが必要だということについては、傍観者のぼくも含めて全員同意をすることだろうと思う。問題はどうすればファンダメンタルが身につけられるか。
この点について見事な回答を示せるのが、先日紹介したトルネードのあり方だが、この件については別の記事にしようと思う。
この記事で問題にしたいのは、「栄光」についてだ。「栄光」とはすなわち、「成功」のことだろう。子供達は何を持って成功したと言えるのか、栄光を手にしたと言えるのか。
ところで、スペイン人のコーチに聞いたら何と答えるだろうか?
“セルヒオ”の言葉を引用したい。
バスケットボールの指導理念 セルヒオコーチの回答
セルヒオは先日出席したスペイン人コーチによるセミナーの講師の1人だ。
(もう1人のコーチ、イニィゴについてはこちら。スペインバスケットボールの育成事情を聞いて考えたこと | はとのす)
手前がセルヒオ、奥がイニィゴ。撮影「とうみん様」(今回のツアーの主催者の1人)
セルヒオは、8年間新聞記者を務めた後、スペイン各地の様々なチームでコーチをしている。その彼が、今までの仕事で最も重要だと考えているのがサン・フェルミンのチームでのコーチ業だ。
サン・フェルミンで検索をするとスペイン三大祭りの一つ「サン・フェルミン牛追い祭り」が出てくる。しかし、これはパンプローナという土地で行われる祭りで、今回出てくる地名「サン・フェルミン」とは関係がなさそうだ。
「サン・フェルミン」は首都マドリードの南部にある地区のこと。地図でいうとこのへん。
特徴としては、世界各地からの移民が多くスラム化していることらしい。そのため、子供達は良質な教育を受けることができず、他の地区の住人からは色眼鏡でみられてしまう。40%の子供は、小学校6年生までの教育を受けられないらしい。
セルヒオが、サン・フェルミンでコーチをする動機は「子供達がスポーツをしている時間は、悪いことをしない。また、嫌なことを思い出さないで済む」からだそうだ。学業をろくに受けられない地域であっても、チームスポーツをすればそこから学べることはあると考えたそうだ。
そこまで話した後、セルヒオは言った。
「スペイン人のバスケットボール選手を誰か知っていますか?」
会場の誰かが「ファン・カルロス・ナバーロ」と言った。FCバルセロナのユースチームの出身で、スペイン代表のエース格であり、一時はNBAでもプレイしていた。
そこから、スペインの育成自慢が始まるのかと思った。
サン・フェルミンのような貧しい地区からでも、スペインの育成メソッドがあれば真のスターを作ることができるという話が始まるものだと思った。しかし、そこから始まった話は全くもって予想に反するものだった。
セルヒオはこう言った。
「ナバーロは勝者だ。だからみんな知っている。
試合でヒーローとして扱われるのは勝者なんだ。
でも、スポーツで勝ち続けるのは不可能だ。それは、人生も同じだ。
人生においても勝ち続けることはできない。
大切なのは、相手を倒すことではない。Journeyだ。」
セルヒオはJourneyと言った。通訳の方は「過程(Process)」という風に訳していた。素晴らしい訳出だと思う。
先ほど紹介したブログにおける議論では、「子供は栄光を掴むべき」という考えが前提としてあったように思う。しかし、セルヒオに言わせれば、栄光を掴める選手などほとんどいない。多くの選手は途中で敗れる。
もし、自分の教え子からプロ選手が出なかったとしたら、成果が出なかったら、それは育成失敗というのだろうか。セルヒオは言うだろう。本当に大切なことは、子供がどういう経験をするか、何を学ぶか、どういう大人へと育っていくかだと。
セルヒオが指導しているチームは、あまり強くない。それはそうだ。マドリードといえば、「レアル・マドリード」を初めとした強力な育成組織を持つチームがある都市だ。屋外の練習場は週に何度か利用できるだけのチームが勝てる相手ではない。
とある年のリーグ戦で、セルヒオのチームは0勝7敗だった。一つも勝てずに迎えた第8戦目のことだった。
サン・フェルミンの子供達は頑張ったが、実力差がありどうしても勝てない。頑張ってはいるが下手なので、相手チームに笑われることもあった。
ある時、サン・フェルミンの選手がボールをスティールされた。そのまま、相手の速攻が始まった。スティールした選手はレイアップに行こうとしたようだが、途中で転んでしまったらしい。
相手チームは、こぼれたボールを確保して、確実に2点を追加した。一方で、サン・フェルミンの子供は、転んだ選手に手を差し伸べた。
試合には負けた。しかし、セルヒオは自分の教えている子供達が「勝った」と感じた。
サン・フェルミンの子供達は栄光を掴むことはなかった。しかし、優しいセルヒオコーチの元で本当に大切なことを学ぶことができたようだ。
セルヒオは、子供達に勝利を求めていなかった。貧しさに負けず、優しく、チームワークを理解してくれたらいいと思っていたのだろう。そういう意味では成功している。
しかし、彼の教えている子供達はプロ選手にはなれないだろう。目指してもどこかで「敗者」になる可能性が極めて高い。それは例えばレアル・マドリードのユース選手にとっても同じ事だ。
レアルのカンテラを出たからといってプロになれるわけじゃない。いや、プロになれる選手は少数派のはずだ。多くの選手は途中で「敗者」になり消えていく。下部組織が充実している分、消えていく選手の数も多い。厳しい世界だ。
と、同時に、「勝者」になる以外のスポーツへの関わり方も用意されている国でもある。先の記事で書いたイニィゴも14歳でプロコーチのキャリアを目指した。
日本がスペインに届かないとしたら、この部分なのではないだろうか。
先の日本人の議論は、
「日本人は身体能力が低いから不利。」
「国際舞台で勝たなければいけない。」
「だから、基礎をしっかり教えなければいけない。」
「楽しく基礎をやるべきという人もいるし、苦しくて辛かろうがハードに教えるべきという人もいる」
このような流れだった。
何かが欠けていないか?
我々は子供に何を求めるのか
イニィゴは、エストゥディアンティスというチームのトップ選手を作るために指導をしている。セルヒオは、子供達の未来のためにバスケットボールを教えている。
バスケットボールの育成に関わる人に問いたい。
自分の教え子にはどうなって欲しいのか
勝者になって欲しい、だから勝つための戦術を教える。こういう考え方の指導者もいるだろう。
しかし、同時に考えなければいけない。教え子達全員が最後まで勝ち続けることは不可能だ。
例えば、学生時代に日本国内では最高クラスの戦績を残した選手である田臥勇太選手であっても、アメリカでは勝者になることができなかった。
日本でも最終的な勝者を作るためのエリート教育は必要だろうと思う。けど、それだけでは薄っぺらだ。「そういう育成」をやっている国もあるが、ぼくからするとスポーツを楽しんでいるようには見えないし、スポーツを通じて人間的に成長しているとは思えない。
最終的に勝者になれなかった多くの選手が、バスケットボールを嫌いになって去って行くようではいけない。エリートコースに挑戦する者は挑戦すればいい。一方で、そこまでの能力を持たないものでも、バスケットボールを愛し、バスケットボールに関わる道もあるはずだ。
また、バスケットボールから人生において大切なことを学び、日本という国を支える大切な人材になってくれるかもしれない。そういう視点だってある。
サン・フェルミンの子供が、倒れている選手に手を差し伸べた。もし日本の選手が同じ事をしたら、日本のコーチの中には怒鳴り散らす人もいるのではないだろうか。
「バカヤロー、まずボールを確保しろ!!!」
バカヤローだと?
日本の将来を担う宝物に向かって、バカヤローだと?
日本人のコーチで、汚い言葉を使った指導をするコーチがいることは否定できないだろう。
そういった点において、日本のスポーツ文化は、スペインには大きく遅れている。そう感じる。
ぼくが参加していたようなクラブチームレベルでも、チームメイトや相手の選手、審判に対して、罵詈雑言を浴びせるコーチや選手を大勢見たことがある。大人がそんなままじゃ良い子供は育たない。ぼくはそう感じている。
我々日本人は、子供達に指導すると言うことにもっと真剣に向き合わなければいけない。
そういう時が来ているのではないだろうか。
上部に載せたブログでの議論では、何か欠けてないだろうか?
子供の人生とか、子供の夢とかそういう点が抜け落ちてないだろうか?
エリート教育をするならば、非エリートのこともちゃんと考えないといけない。
オリンピックで金メダルを取るために、優秀な子供だけエリート教育をするという国もある。それで成果は出ることはあるかもしれないが、文化は育たない。
若干、歯切れが悪いが、どうまとめるべきなのか、自分の中で結論が出ない。
明瞭な結論を示さないまま、この投稿は終わりにしようと思う。今後もっと考えていきたい。