Bリーグ開幕戦を、現地で観戦してきた。忘れないうちに、当時の感想をメモしておことにする。
しっかりと構成した文章にする時間はないので、あくまでも「箇条書き的」なメモに留める。
なので、自省録的な内容である。
なお、この「1Q」については、試合前の心境でほぼ終わる。
開幕前の心境
Bリーグの開幕は、日本バスケにとっての歴史的な瞬間である。
これを「Jリーグの開幕」と重ね合わせて考える人もいる。
それは、全然違うのだ。
Jリーグは、まっさらの大地に希望と期待と共に始まった。一方で、Bリーグは、多大なる失望と絶望の上に、日本バスケットボールのラストチャンスとして始まったのだ。
Bリーガーがテレビに呼ばれてチヤホヤされることもないし、クラブのVIPルームでナンパすることもないだろう(ないよな?)。そこまで大きな規模のブームになるとは思わない。でも未来に望みが繋がるだけの、最低点は何としても超えて欲しい。絶対にこけないで……。
これが失敗したらもう日本のバスケは駄目だ。だから、絶対に失敗しないで欲しい。そう願うしかないのである。
ぼくだってここ10年失望し続けてきたし、途中から日本バスケを追うことすらなくなってしまった。それは無責任だといわれるかもしれないが、応援しようと思った場合にはある種の忍耐が求められた。
Bリーグが始まったからといってバスケの話題に飛びつくのは、何とも無節操な感じがする。苦しい時代を支えてきた人に対して申し訳ない気もする。しかし、ぼくにみたいな立ち位置の人も結構いるんじゃないかなという気もしている。
Bリーグの前身について
2005年にbjリーグが開幕した。我々はバスケ仲間と一緒に何度も観戦に行った。bjは予算がない中頑張っていたと思うし、あそこでbjがプロバスケットボールリーグを作るために立ち上がらなかったら、今のBリーグもなかったかもしれない。
試合自体にも面白いものはあった。東京アパッチとエヴェッサ大阪が大接戦を演じた試合のことは展開までよく覚えている。エヴェッサの白人PGはいい選手だったし、波多野というイケメン選手は出番こそ少なかったものの、闘志溢れるプレーを見せていた。
波多野は、エヴェッサの看板選手でポスターにはいつも正面に載っていた。しかし、試合での活躍は限定的であったように記憶している。ある意味では客寄せパンダ的な選手であった。bjは外国人中心のチーム作りをするところが多かったのだが、やはり日本人のスターも必要なのだ。
波多野も活躍するのだが、一番目立つのはやはり外国人選手であった。それが悪いということもないのだが、bjリーグに深い愛着を持てなかった理由にもなっていたかもしれない。
一定以上の満足感を得ながら、なんでbjが深く愛せなかったのか。
スポーツ観戦には財力と時間が必要で、当時貧乏大学生であり、かつ、土日はほとんど自分がプレーする時間にしていたこともあって、うまく噛み合わなかったのも大きい。毎週チケット代を払うことも、毎週末を空けることも不可能であった。
ところで、bjリーグの演出面を高く評価する人もいるが、ぼくはあんまり得意ではなかった。格好いいときもあるのだが、音が多すぎて疲れてしまう。これは好みの問題であろう。
JBL(後のNBL)については、それほど観戦する機会が多くなかったのだが、非常にハイレベルな試合を見ることが出来た。しかし、どうも熱狂するようなものではなかった。応援しているのは、空気で膨らませたスティックを持っている社員さんなどの関係者が中心で、一般の観客としては疎外されているような気持ちになったのだ。
企業スポーツの経営は安定する。しかし、企業に関係ない人間には応援する理由があまりない。他所様の祭り覗かせて頂くというような感覚になる。「東芝!東芝!」と叫んで応援する気持ちになるには、やはり東芝にお世話にならないといけない。東芝製品の大ファンであったとしても、東芝を応援して大声を出す気にはならないのだ。
選手個人の物語に入り込むという手もあったのだが、JBLもやはり外国人選手が絶対的な活躍をしていて、だったらNBA(アメリカのリーグ)でいいじゃないかとなってしまうのである。
分裂状態とJリーグとの出会いについて
そういう背景もあって、日本のバスケには熱狂できずにいた。それはぼくだけではないだろう。プレイヤーは、自分がプレーするのに忙しくて、試合を観に行く時間があまりないのだ(サッカーでも同じ現象は起こっている)。もっとも、プロの試合は見れないが、区大会などにいくと、オフィシャル(時間はかったりする人)などの仕事が回ってくるので、待ち時間などを含めて一日5,6試合を観戦することはある。それだけでかなり満足出来るのである。
ぼくが日本のバスケに、どうしてそこまで失望したのかというと、やはり分裂騒動から始まった、一連のゴタゴタ、グダグダである。一時は気合いを入れて、会議で話し合われた内容とかを調べてみるなどしていたのだが、うーん、これがね……。
トップリーグを統一しないと国際試合の出場資格を停止するぞと通告される。統一までの期限を設定される。その期限の直前、最後の会議ですら何も決まらずグダグダになってしまい、そのまま出場資格が停止になってしまった。東京オリンピックにも出れなくなるのである。
そこまで行くと国の恥と言われても仕方がない。
ああ、もう駄目なんだな。やっぱりどうやっても駄目なんだな。
そう思っている頃に出会ったのがJリーグなのであった。地域密着の理念を掲げ、サポーターの意志によって広まっていくJリーグは実に魅力的であった。そこには、人の活力と、人の人生があった。観客が主役になるという考え方は、bjとJBLに「足りなかったもの」を教えてくれた。
「足りない」というが、もちろん、ぼくにとってである。ぼくは、一人の観客としてショーを傍観したいのではなく、主役の一人として試合に参入していきたかったことに気付いたのだ。
その段階では、自分が何を求めているかすらわからなかったのだが、それを満たしてくれたのがFC東京のぼろ負け試合なのである。
「応援しなきゃ!そこに行かなきゃ!声を出さなきゃ!」
そう思わされる圧がJリーグのほうが強かった。バスケにはそれがなかったのだ。何度も言うが、ぼくにとっては、である。
家に帰って、NBAのリーグパスを見ればアメリカの全試合がネットで見れるのである。年間82試合×30チーム÷2+プレーオフだから、軽く1000試合を超えるのだ。
そして、2016年日本のバスケが、最後の賭けに出た。Bリーグの開幕である。
背水の陣、ここで駄目だったら日本のバスケはもう駄目だ。マイケルジョーダンの大ブームも、スラムダンクも生かせず、マイナーなアマチュアスポーツ、あるいは、小規模なプロスポーツから脱却できずにいたバスケ界の大博打なのである。
書いていて思ったのだが、やはりぼくはバスケが好きらしい。
ぼくの人生で最も頑張ったことは何かと問われたら、それは間違いなくバスケの練習だ。
いつもバスケのことばかり考えていたし、バスケのことばかり語っていたし、電車の中でもバスケのステップの練習をしていた。
飲み会には、今思うと可愛らしい女性がたくさんいたのだが、ぼくはいつもバスケの話しかしなかったので、全然モテなかったなぁ。
チャラ男の友人(バスケ上手くて口が悪い)の家にいって、延々と試合のビデオを見返して、より良いプレーをするための方法を考えた。
それでも大して上手くはならなかった。
けど、使った時間の分だけ愛着も強いらしい。
だからこそ、失意も強かったのだ。
今でも時折思い出す。
バスケチームをやめなければいけなくなった時、本当に悲しくてずっと泣いていたことがあった。チームをやめるのって本当に辛いよね。何度かあったけど、毎回泣いた。
試合で何も出来ずに悔しさのあまり一晩中歩き回って、上野でホームレスさんに混ざって寝たこともあった。
一人で20点以上決める大活躍をした試合もあった。
バスケは不思議なほど情緒的なスポーツ。発せられる感情の量が大きく、ねっとりと絡み合っていく。
濃厚な感情のスープの中を、全力で走り続ける。
息が切れても、捻挫の痕が痛んでも、腰が重くても、走り続ける。
どれだけ息が切れても声を出し続ける。
そして、どんな辛い時でも仲間の声が聞こえてくる。
うーん、何だかバスケがやりたくなってきた。最近はバスケのことを思い出す頻度がかなり減っていたのだが、Bリーグを切っ掛けに大事なことを思い出してきたような気がする。
体育館で撮った写真はないかなと思って探してみたら、すっごい古いのが出てきた。
これいつだろう。場所は浜町っぽい。
ということは、第1回ミクバスフェスタの時だったはずだから……
2005年か。あのときサンタクロースのコスプレしてた子が可愛かったな。
ということは12月のことである。
ちょうど、日本のバスケが分裂した頃のこと。
ぼくの年齢は25歳。
あれから10年。
想像もしなかった。
10年後、バスケをやめていることも、バスケのことを思いながら文章を書いていることも。
何の話かわからなくなったので、今回はこのへんでおしまい。
個人的な内容だけど、ブログだからこういうのもありかな、と。
開幕戦について全然書いていないので、次からはテンポを上げて書いていこう。