書籍原稿でも、シュートを撃たないことにはどうにもならないな。 (2016年6月17日)
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喉が痛くて、頭も痛いので調子が出ない。
今新しいところを書き進めてもボツになるのは目に見えているし、昔の原稿を直すのも今ではないほうがいいだろう。
noteの企画にも取り組みたいのだが、あれも体力を使うから、一番やりやすい「はとのす」に何か書こう。
ここはプライベートスペースなので何を書いてもいいと割り切ってから、「はとのす」に書くのがとても楽になった。
逆に今までは一番書きづらい場所がここだったのだ。
今くらい誰も注目しなくなった状態で、ニュースバリューも、思想的な先進性も、手の込んだ考察もない普通の文章を書くのが一番気楽だ。
ここまで書いて1分。
書籍用の原稿では、この量を書くのに丸一日かかることもある。
そうか。
思えば書籍用の原稿もそのくらいざっくりと書くべきなのかもしれない。
ゆるく書いたとしても、何度か手直ししているうちに、自分らしい暑苦しい文章になっていくだろうし。
適当に、思いつくのに任せて、自由に書く。
書籍用の原稿には魂を込めると息巻いて、自分を追い詰めて追い詰めて追い詰め抜いた結果欠けなくなるのであれば、凡百な文章でも残しておいたほうがいい。
何がぼくの中で流れをせき止めているのだろうか。
今まで本当に色々な方法を試してきたが、なかなか決定的なものが見つからない。
最後の詰めが出来ないのか。
ジャパニーズカルチャーであり、ジャパニーズ風土病でもあるシュートが撃てないという病に、ぼくもかかってしまっているのかもしれない。
そういえば国際学会にいったときには、明らかにクオリティの足りていない研究であっても、自信満々に発表する外国人がたくさんいたものだ。日本人は、最高のクオリティーに達していないことを恥だと感じてしまうため、自然とシュートを撃つ機会が減るのだろう。
全部で30章あるとしたら、その全てで芸術的なゴールを決める必要はない。シュートを外したとしても撃ちさえすればいい。思えば、全ての章が面白い本というのはそうそうないはずだ。
思えば、これは読者への不信なのかもしれないな。
刺激的なリードをつくって引っ張り、飽きさせないように工夫を凝らさないと途中で読むのをやめてしまう人がいるかもしれない。そういう気持ちがあるのかもしれない。いや、あるだろうな。
時にはうまくいかない章があったとしても、そこは読者自身がうまく解釈して、前後を繋げてくれることを期待すればいいのではないか。旅の記事だと、どうしても退屈なシーンも出てきてしまう。しかし、カットはしたくない程度には愛着がある。そういった場所で筆が止まることが多かった。そういえばそうだ。
魂を込めて書く。試合の序盤に勇敢なシュートを撃ち、最後には勝利していればそれはいい本といえる。
思えば、30対0で圧勝しようという気持ちが強すぎたらしい。引き分けでも、敗北でもいいから、あるものをそのまま出す。それが一番だ。
昨日イメージを失ってしまったと書いた。
頭に出来たイメージを文章に直すという作業、つまりこれは演繹的なアプローチといえるのだが、これだけでは成立しないこともあると割り切って、文章に出てきたものからイメージを膨らませる帰納的なアプローチも援用するべきだろう。
要するに書きながら想像していくということだ。
よく考えると、良い時はそういう風にイメージを作っていたような気がする。
うん、書けそうな気がしてきた。
頑張ろう!
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