eyecatch-writer

書くことの最大のメリットは、自分の心と向き合えること


このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket
LINEで送る

8月は思うようにならなかった。書きたいことが積み重なっていくのに、書くペースはとことん遅かった。書きたいことが湧水のように尽きないのは良いことだ。しかし、思うように書けないことはストレスだった。

スポンサーリンク

書けなかった理由は、心と身体の調子が整わなかったこと。

体調不良の状態では良い文章は書けない。単発の記事くらいは気力で乗り切って書き上げることはできるが、コンスタントに書き続けることは難しい。そして、身体の調子が悪いと心も乱れる。

心が乱れてしまうと、文章は書けなくなってしまう。文章は心を伝えるもの。心が乱れていては文章も乱れる。書くべき内容があったとしても、紡がんとする努力するうちに散っていってしまう。書いている途中で何が言いたいのかわからなくなっていく。乱れていく。

内容も散るが、文の勢いも散ってしまう。文章とは心を伝えると同時に、心の勢いを伝えるものだ。ワンピースの「覇気」のようなものを文に宿らせると言えばわかりやすいかもしれない(わかりにくいかもしれない)。

不調だと、うまく「覇気」を乗せて書くことができなくなってしまう。

ぼくは暗黒の研究時代に、鬱屈した気持ちをブログに書くことが多かった。その内容はネガティブなものが多かったため、批判的な発言をもらうことも時にはあった。しかしながら、それよりはるかに多くの賛辞を得た。

研究活動に従事する大学院生としての当事者性を持った状態での、真実のメッセージだったからかもしれない。そのとき感じていたことを、良いこと、悪いことを含めて叩きつけた。その思いはまだ残るが、昇華させ次のステージの書き物をしなければならない。

負の感情に任せるだけでは、「奇」なる文章は書けるかもしれないが、本当に自分が満足する書き物はできないことはわかっている。

自分の心を整え、文章に託す。ぼくが産み出した文章が、一つの音楽となり、誰かに良い影響を与えてくれることを祈りながら公開する。文章を公開するなんてことは「恥さらし」もいいことだし、コメントがついていたりするとネガティブコメントではないか、炎上するのではないかという恐怖を覚えることもある。

かつて、研究時代の「お偉いさん筋」が放った言葉がある。「文章をネット上に公開することなどプラスになることは一切ない。マイナスしかない。」と。一見正しい。炎上するリスクがある一方で、得るものは殆どない。

だが、それは間違いだ。間違っている。

心を込めて書けば、必ず伝わる。
ぼくのメッセージは誰かを動かすことができるし、幸せにすることも出来るかもしれない。
そして、距離は離れていても共感し合える仲間を得ることができる。

「物書き」は文章力が必要だと言われることがある。書く技術が大切だ、と。もちろん軽視はできないし、常に精進するべきではあるが、文章力なんて本当はどうでもいいことなのだ。

すぐに市民団体に批判されて炎上してしまう官報の類いを書いているなら話は別だ。間違いが少ないことは大切なことだ。しかし、ぼくが書いているのは江戸川区報でも、水産白書でも、判例でもない。

流麗な文章が書けたところで、心が籠もっていなければ何も伝わることはない。

自分の心と向き合い、挌闘し、良い状態を保ち、その上で加速させる。

正直まだ上手く出来ない。文章は自分で満足するレベルには達していない。それはすなわち、ぼくの心がまだ良い状態に達していないということだ。これは、ゴールのないレースなのかもしれない。良い文章が書けたと思えることなどないのかもしれない。

しかし、1月前よりも、今のほうが良くなっているというような実感はある。今が伸び時、今が成長期だという実感がある。

32歳にして、自分の成長の音を聴き、骨が伸びていくことを実感している。
未来には夢が詰まっている。

これほど幸せなことはない!!

スポンサーリンク