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チャフ機能付きの少年よ、走り抜けるのだ。

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大きく息を吸い込んだ。
この感覚。実にひさしぶりである。

食器を片付け、掃除や整理整頓を一通り終えた。インスタントコーヒーを一杯入れて、BGMにthee Michel gun elephantのブラックタンバリンを流す。

今日は午前にも大きく息が吸えた。色々な用事を片付けることが出来た。そして、午後には、文章を書くことに向き合うことが出来ている。

ここまで違うとは。「チャフ」があるとないとではエライ違いである。

チャフというのは兵器の一種で、アルミホイルのようなキラキラした紙吹雪をまき散らすことで、相手のレーダーを攪乱する効果がある。つまり、大まかに言うと相手の頭の中をチカチカとした銀箔で攪乱することを狙ったものである。

自宅を仕事場とするぼくにとって、この攪乱兵器に常に脅威であった。この攪乱兵器はこの世に誕生した瞬間から非常に高性能であったのだが、近年において、機動力が飛躍的に向上したことから、破壊兵器並みの威力を誇るようになった。

要するに、細かいことは書かないが、何かに集中しようとすると、ドタバタドタバタ足音が聞こえて、甲高い声で「見て!!新幹線!!線路作ろ!!遊びましょう!!もっとやろう!!」などと叫ばれると、それまで考えていたことが雲散霧消してしまうのである。

もちろん、子供は可愛いしし、一緒に遊ぶのも楽しい。3歳近くまで手元において面倒を見てきたことには何の後悔もない。しかし、その期間、思考を結晶化し、文章に変換し、それ大事に研磨していく作業については、正直言って効率的には進まなかった。

あんまりにも進まないものだから、時折無理をして取り返そうとする。その時には確かに進むのだが、落とし穴があった。我が家のチャフは、ウィルスや細菌などの生物兵器の運搬と培養においても強力な性能を誇っているため、家の中には常に何らかの病原菌がはびこっている。そのため、かなりの高確率で感染し、しばし寝込むこととなるのである(そして、寝込んでいる時こそ、格好の餌食になるため、回復が遅れていく……)。

もちろん、子供は兵器ではないし、兵器に喩えるなどけしからんと言う人もいるかもしれない。しかし、ある一面においては、まるで兵器であるかのように作用することがあるのも事実なのである。怪獣の類いが暴れ回る映画は、小さい子供がいる人が作ったに違いないとぼくは思うのである。寝転んで微睡んでいる時、凶器となる鉄製のミニカーなどを振りかぶっている子供を上目に見た時は本気で恐怖を感じるのである。育児は苛烈なのであり、苛烈であるからこそ、ちょっとやそっとのことでは少子化は解決しそうにないのである。

「泣く子と地頭には勝てない」とか「寝た子を起こすな」という格言から、昔の人もこの攪乱兵器的な効果には悩まされてきたように思う。地頭というのは、税金の徴収に来る最も恐ろしい役人のことである。

とまぁ、このような状況に陥っていたのは、俗に言う「待機児童」という問題に直面したからであった。もう、これは、絶望的なまでの「待機」を味わった。しかし、11月より少しお値段が張るのを覚悟で、体育重視で有名な無認可の保育所に預けることとなったのである(高いには高いが、補助が出ないとどこも高いので似たようなものではある)。

これは革命であった。これまで、貯蓄を食いつぶすような生活をしていながら、新たに稼ぎを得る作業がさっぱり捗らないというX-Japan風に言うならば「破滅への階段」を登っているような状態であった。しかし、ぼくは自由を得たのである。

久々に大きく息を吸い込んだ。本当に久しぶりなのである。特に妻が重度のぎっくり腰になった9月以来では初めてといってもいいかもしれない。

家に子供がいるというのは、嬉しいことであり、ありがたいことであると100回以上念じたとしても、意識の中に常に引っかかっている。常に気にしていないと、階段から転がり落ちるかもしれないし、窓から飛び降りるかもしれないし、テレビをたたき割るかもしれないし、猫の毛をむしるかもしれないし、蔵書に向かっておしっこをするかもしれないし、床がう○ちまみれになるかもしれない。

意識を何割かは常に割いていないといけないので、心から落ち着くことが出来ないのだ。マルチタスクが得意なタイプの人には難しいことではないのかもしれないが、一般的に男性は複数の活動を同時にするのは苦手とされている。特にぼくは一点集中型の極みであって、マルチタスクは苦手なことこの上ないのである。

それでも、長時間パパと一緒にいたことで、我が子の情緒は安定したように思う。現代日本において、ここまで長時間パパと過ごした子供は珍しいように思う。親はなくとも子は育つというように、必ずしも必須ではないのだろうが、ぼくとしてはこういう育て方をしたかったので後悔はない。泣いている子がいたらヨシヨシしにいってあげることもある優しい子になってくれたのは本当に嬉しいことだし、大きな自然や、その辺を歩いている小さな虫にも好奇心を示す感性豊かな子供にもなってくれたと思う。

もうすぐ3歳ということになるとだいぶ頭が人間らしくなってくる。感情のまま生きていた頃と違って、恥ずかしがったり、甘えたりという複雑な感情も芽生えてきた。特に最近では、本当は出来ることなのに親の前ではわざと駄々をこねてやらないことが増えてきた。これは甘えである。

なだめすかしたり、説得したりしつうつ、最後には毅然とした態度で怒って言うことを聞かせるのである。関係ないがパパが怒ると本当に怖いらしい。生物の威嚇の手法を使って、感覚的に怖いようにするのが効いているのかもしれない。

ともかく、甘えて駄々をこねる機会が増えてきたことは、もう他人の手で育てるステージに来たということを示している。ぼくはそう考えた。この年齢まで男の子は一人遊びをすることが多いのだが、徐々にではあるが公園や子育て広場で出会った子供と一緒に遊ぶことも増えてきた。仲間が必要なステージである。

そして、地面においた瞬間に走り続け、キロ単位で止まることがない無尽蔵のエネルギーを抱えるまでに成長した子を、親が見続けるのはそろそろ限界なのであります(先日、休みつつであるが3.5キロを走り抜いた)。

というわけで今日は保育4日目。1日目と2日目は、雑務と静養にあてることが出来たため、すっかり風邪が治ってきた。3日目は、シンガポール&カンボジアの準備や諸々の雑務、各種執筆などをこなすことが出来た。そして、今日もガツガツと仕事をこなすことが出来た。

子供には無限の未来があり、いかような夢を描くことも出来る。しかし、それは彼の問題であり、彼自身が見つめて、叶えていくべきことだ。ぼくも「大きな子供」として抱えている夢があって、その夢は一旦は叶ったように見えたが、また遙かな星になってしまった。ぼくにはぼくの事情があって、それを何とかするために全力を尽くさねばならない。

34歳。子供はもうすぐ3歳。気楽に生きていた数年前が嘘のように、人生は激しく苛烈なものになってきた。ここで踏ん張って、自分がやりたいようにやれるように努力できるかどうかが、この先の人生を決めるのだろうなと思う。別に贅沢がしたいわけじゃない。子供に偉くなって欲しいわけでもない。そこそこ運動が出来て、スポーツをする仲間が出来たらそれで上々だ。それ以上のことは、自分で考えて決めたらいいのである。今のままだと新幹線になりたいと言いそうではあるが。それもまた人生である。

走れ少年!どこまでも!

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福島県の五色沼散策路にて。この後、彼は3.5 kmを走り抜けていった。

34歳にて、人間を一人育てるのがいかに大変かを思い知る。親に感謝。先生に感謝。周囲の大人達に感謝である。改めて。

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