自分は先に進んでいるのか、それとも一歩も動かずにいるのか、あるいは後退しているのか。そんなことを考えていたのはもう15年も前のこと。あれは受験生の頃である。
気の合う友人とは、そんなテーマで話し合ったこともあった。印象的なのは、眼鏡の生物学が大好きな青年の答えであった。彼は、二人の彼女がいることが唯一最大の自慢で、いつもどちらかの彼女の自慢話をしていた。生物学が大好きな眼鏡っこで、とてもプライドが高く、繊細な線の細いタイプであった。最終的に、二人の彼女に同時に振られて、大きく落ち込んでいたが、誰も同情しなかった。でも、彼のことを嫌いという人もそんなにいなかった。
そんな彼はこう言った。
「ぼくは同じところをグルグル回っている気がする。気付くと、前と同じ場所に立っている。でも、同じ場所のはずなんだけど、以前いた場所とは少し違う。グルグルと同じところを回っているけど、決して同じ場所には戻れないのかもしれない」
こういった議論をした時間は不毛であったと自嘲したこともあったが、30代の半ばになってその時の議論を思い出すことがあるということは、何らかの糧にはなっているのだろう。
ぼくは、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』にどっぷりとはまり込んでいた。だから、どんなに絶望的な状況であっても、いかなる孤独に包まれようとも、力強く前進するべきだと考えていたし、どこへ向かうにしても精一杯努力しようと心がけていた。
人生、一寸先は闇である。しかし、その闇の中に積極的に飛び込んでいくべきだし、闇の中であがき続けるべきなのである。
そんな思想を持っていたからこそ、一日に15時間も机に向かっていられたわけだし、どう考えても苦痛の要素のほうが大きいはずの科目に対しても、知的好奇心があるという「振り」をして、積極的に取り組んだ。
知的に背伸びをすることは非常に重要だ。即座には理解できない、難解で、複雑なテーマに対して、「めんどくさい」と思うのか、「面白い!」と思うのかによって、人の人生は大きく分かれて行く。
もちろん、どちらがいいかはわからない。その人や、環境によっても異なるはずだ。ぼくの場合は、後者を選んだ。そのため、人生がややこしい方向に進んでしまったのも間違いない。好奇心があればいいというものでもないし、向上心があればいいというものでもないのである。
今の自分の立ち場が正しい保証などない。往々にして人は自己肯定的な結論を出すことが多いため、「俺はこれでいいんだ」という合理的な結論を出すことは何ら不自然ではない。難しいことでもない。
でも、ともかく、面白く生きていられているのは間違いないし、前に進む度に日々明るい友人が増えていく(暗い友人は離れていく)。
「ああ、つらい。つらいつらい。」
宮沢賢治の童話『フランドン農学校の豚』には、嘆きながら屠殺されていく家畜の心情が描かれている。思えば大学院にいるころは、いつも「豚の心情」だったなと思い出す。
ぼくは、作られた闇の中から解き放たれた。いや、自ら飛び出した。闇の中であがくのではなく、闇から突き抜けることを選択したのである。
しかしながら、抜けた先にあるのもやっぱり闇で、ぼくは相変わらず闇の中にいる。恐らく、闇の中に入っていくのが好きなのだろう。これは、もはや生き様というよりも趣味である。趣味を仕事にするという言い方があるが、ぼくの場合もそういうことかもしれない。
大学受験の時も闇だったし、大学に入ってからも闇があった。いくつもあった。大学時代の闇は深かった。ただ沈んでいった。そして研究時代もあり、ライター時代もあり、作家と名乗ってからも闇はある。
確かに、グルグル回っている。闇から抜け出して、また次の闇へと入る。その繰り返しである。フタマタ眼鏡男は、なかなか鋭いことを言ったものだ。
闇は、戦場と言い換えることも出来る。
時には、戦場に出て、戦う気力すら湧かずにただ震えていたこともあったのである。
しかし、今は、心気力充実し、戦えている。この状態こそ、ぼくの人生における幸福の定義なのである。