書くべきことは芸術-art-のステージか
この記事は、ある意味では出世を繰り返した結果、ブログに掲載することにした。
Twitterの呟きをしようと思う → 長すぎる → Facebookの書き込み → 長すぎる → Facebookノート → 書いていて愛着が湧いてきた。
こういった内容や書き口に需要がないのは知りつつも、「書く」ということに強く関心がある少数の読者には多少の興味を持って頂けるかもしれない。
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なんというか、ぼくは根本的にやる気のない人間だなぁと思う。常にモチベーションが高く、何でも学び取ってやろうという真摯な姿勢を常にとるなんてことはぼくにはできない。
適当で気まぐれ。粗雑で大雑把。これが自分なんだろうと思う。
一方で、人に対してはなるだけ親切でいようと思っている。なかなか心尽くしができなかったり、伝わらなかったりして、後で凹むことも多いんだけどね。
そして、普段が適当だからこそ、「お、これはいいかな」と思った瞬間に「爆発」できる。
自分は心底本番に強い人間だと思う。試合でもテストでも、プレゼンテーションの本番でも練習よりもはるかに大きな結果を残すことができる。ここぞという時に、研ぎ澄まされていくのがわかる。
最近はこういうのを「ゾーン」と言ったりするらしいので、その用語を採用しようと思う。
ぼくの場合は、いつ自分が「ゾーン」に入るのかよくわからない。だから適当で曖昧で大雑把な感じになってしまう。
そして、1度「ゾーン」に入って何かを書くと、しばらく放心してしまう。トロトロに脳が溶けてしまう。そうなると、財布の小銭を整理したり、振込をしたり、メールを返したり、スケジュールを確認したりすることができなくなる。というか何かしら忘れてしまう。
そうすると色々と問題も生じてくるもので、自分に呆れるやら、申し訳ないやら、ストレスが溜まるやらで困ったことになる。
こんなとき、夏目漱石はやはり偉大だなと思う。
草枕より
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
なんと的確なことを言うのだろうか。
それはともかく、一番重要な点は、「住みづらい」という前提を踏まえた上で、そこを住みよくするためには「芸術」が必要だと言っている点。
その通りだ!
世の中をより良くするためには、情報-information-、知識-Knowledge-、叡智-wisdom-だけでは駄目なのだ。
芸術-art-という階層のものがなければいけない。artというは「人間の手によって加工されている」という意味合いを強く含む言葉だが、ぼくに言わせれば「感情や感覚」を現象させて加工したものが芸術だ。
世の中にはぼくよりもはるかに優れたライターがいる。正面から戦うと勝てないと感じることも多い。しかし、情報、知識では勝てなくても、時に叡智でも勝てなくても、芸術-art-の階層で勝負を書けていくということは可能だろうと思う。
芸術というのは、難解なものではない。
もっとずっとわかりやすいものなのだ。
それは単に人の心を、詩とか絵とか写真とか音楽に形を変えたものに過ぎない。
元にあるのは人の心だから、本来は誰にでもわかるものなのだ。
ぼくは書くことで、生きづらい世の中、住みづらい人間の世界に安らぎを与えたい。救いを与えたい。生きて行く意味を、生きて行く楽しさを、充実することの喜びをほんのわずかでも提供したい。そうか、そういうことなのだ。
書くことの意義は何か。ぼくが書くことで、必ず世の中は良い方向に進んでいく。ほんのわずかな進展かもしれないが、必ず誰かに安らぎや生きる意味を与えることができると信じることだ。それが意義だ。
問題は、芸術-art-の階層の書き方をすると精神がすり減っていくことだ。ぼくが何かを書くときは多かれ少なかれ人様の活動について語ることが多いので、どう書いたらいいものか非常に気を使う。そして、今、自分が考えていること、感じていることを、うまく表現しきれないということで苛立ちを感じることもある。
そういったものを全て飛び越えて、ある意味では「無」になって文章が書かないといけない。
それが気軽に簡単にいつでもできるならいいのだけど、「ゾーン」に入ったような深い集中を呼ぶのは決して簡単ではない。だから、いつ集中できるのかわからないし、集中したらしたでしばらくは呆けてしまう。
呆けてる間に次の予定は迫ってくるし、そこでうっかり感動でもしてしまおうものなら、また何か書きたくなってしまう。
そして、ぼくの雑務は、いつしか闇の中に葬られていく。春にやる予定だった衣替え、押し入れの中の整理、窓掃除、研究時代の道具の整理、雑誌の整理、ファイルの整理、猫の爪切り…………
書きたいことが多すぎて困るというのは、きっと悪くない状態なんだろうと思う。
やりたくない仕事の締め切りがたっぷりあるよりはずっといい。
書きたいことを書いていく。
それはつまり、自分がもっとも感動した類いのことを表現することだ。
人の心の本質に迫る、芸術-art-というステージの書き物が出来たならば、必ず誰かの人生にとってプラスになるだろうと思う。
今日はもう眠いし限界だと思っていたのに、1時間以上かけてこんな駄文を書き連ねてしまった自分はやはり気まぐれなんだろう。
書きたいこと=芸術のステージというアイディアはこの文章を書きながら思いついたことだけど、我ながらいいところに転がったなと思う。狙った文章だけではなく、駄文を書くことも大事だし、駄文を書く場というのも大切だ。
そして、お付き合い頂き、どうもありがとうございました。こういうのを読んでもらえるととても嬉しいです。
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世の中で文章を書くことで生活している人は才能のある人だ、と、凡人の私は思っている。ヒット曲を出すソングライターやシンガーもそのレベルの人なんだろう。自分がどう背伸びしてもその才能にはかなわないとつくづく思う。だから読む側、聴く側にいる。それはそれでまた楽しい。
匿名様
コメントありがとうございます!
いまちょうど書いていたところなのですが、ぼくも「音楽」については全く同じ事を思いました。才能があるからプレイヤーは諦めて、聴くのを専門にしようって。ただまぁ、才能はないなりに演奏を続けていたとしても、それはそれで面白かったかなぁという気もしています。食えるかどうかを考えると難しいところですけどね。
文章に関しては、才能があるかどうかは別にして、食っていけるように精進しています。