★先週、先々週と心を込めて文章を書いた。自分ではうまく書けたかどうかはわからなかったが、読んでくれた皆様から大変なお褒めの言葉を頂いた。書いたものが評価されることというのは、書くために費やした時間や労力に比べるとはるかに小さい。
単に感謝されたいだけだったら、他のことをしたほうがだいぶ効率がいい。
文章を書くという行為は、自分の脳みその中身を陳列棚に並べて品評会に出すようなものだ。自分の根元を否定されるというリスクがあると同時に、得られるものは多くない。
★偉大な小説家であるかどうかの判断基準の一つに「自殺したかどうか」というものがあるという話を聞いたことがある。そのこと自体には賛同しかねるが、書くということを突き詰めると自殺というゴールに至るという気持ちもわからなくもない。
書くという行為は圧倒的に孤独で、人生において書くことに与えるウェイトが増えれば増えるほど、どこかに追い込まれていくような感覚が得られることがある。
しかし、作家・物書きの承認願望は留まることがない。文章を書くことなんかやめて、近所の掃除でもしたほうが感謝されるかもしれないのに、書くことをやめることはできない。
大いに書いて、大いに反響を呼ぶ。その中には、強烈な批評も含まれる。相手にする必要はないとわかっていても、心無い言葉が心に突き刺さる。どんな嬉しいことがあっても、どれだけお金や名誉が得られても、作家が自殺することは止められない。
★とはいえ、最近は自殺する作家の話は聞かない。書くことについて考え始めると、その先にある「死」がリアルなものに感じられてくるが、具体的に誰のことを思い浮かべるというといまいち実感が沸かないのも事実だ。太宰も三島もぼくらの世代にはリアリティがない。
だから、自殺した作家というといつもハートフィールドを思い出す。村上春樹の処女作『風の歌を聴け』の序文に出てくる架空の作家だ。
村上春樹には好きな作品は数多くあるが、春樹的な気分に浸りたい時は処女作の最初の数ページを読めば事足りる。
その中で最近頭にぼんやりと浮かんでくる言葉がある。「暗い心を持つものは、暗い夢しかみない。もっと暗い心は夢さえも見ない」この言葉がずっと頭の中に鳴り響いている。
★バブル崩壊後といってもいいかもしれないが、日本は「暗い心」を持っていたのではないかと思う。東京オリンピックの開催が決まったが、これで日本人の心も少しは明るくなるだろうか。
実家は中古車販売店の経営をしていたのだが、オリンピックで金メダルなどの明るいニュースがあったあとは車が売れるものなのだそうだ。良いことだ。生まれ育った街が、施設の建設などで変わっていってしまうことについては思うこともあるし、言っていかなければいけないこともある。
しかし、日本人が「明るい心」で「明るい夢」を見れるようになるのならば、それが1番のことだ。その上で、より良いオリンピックになるように全力を尽くせばいい。
新聞には「金メダル30個が目標」などと書いてあったが、そういう問題じゃない。大切なのは金メダルの数じゃない。
「お も て な し」の心というのは、ホスト役が大活躍して主役になることなのだろうか。本来的には、自国の選手育成よりも他の国の選手のために労力を使うべきなんだろうと思う。
★良い文章が書けたと評価してもらえたことはとても嬉しい。と、同時に、もっとうまく書けたのに、もっと心を込めることができたのにという後悔までもが湧き上がってくる。
果ては、自分はそんな褒められるほど大した人間ではないという思いも出てきて、褒められているのに落ち込んでいくという状態になってしまう。かといって、何の反響もなかったらそれもそれでダメージがある。
文章とはおもてなしであり、答えのないマゾヒズムだ。
文章を書く、タイトルをつける、結論を用意する。こういったことをしていると、暗闇に向かってボールを投げているような気持ちになる。ぼくは精一杯ボールを投げることはできるが、どこに当たるかどうかはコントロールできない。
ベストを尽くすことはできるが、どう評価されるかはわからない。
最近「意味のあること」を書きすぎたので、しばらくはフワフワ系の更新を混ぜようと思う。