宮崎駿監督作品、映画『風立ちぬ』を観てきた。
「風立ちぬ」については、実はあまり良いイメージを持っていなかった。戦前の日本が舞台で、主人公が「零戦」の設計者という時点で、明るい話になるわけがない。ジブリらしい夢に溢れるファンタジーの世界とは無縁の薄暗い話になるのではないだろうかと思っていた。
だから、「風立ちぬ」は観ないでもいいと思っていたのだが、信頼する友人から強く勧められたこともあり見に行くことにした。
風立ちぬは、紅の豚の続編なのだろうか?
この作品を観て最初に感じたことは、乗り物と風景の描写が多く、非常に凝っていることだった。宮崎駿という作家は、映画を作る前にまず「描きたいもの」があると何かで読んだ。
(卒業論文は宮崎駿について書こうと思っていたので色々調べていたときに読んだような気がする。)
極端な話を言うと「ナウシカ」だって、あの凜とした素敵な「ナウシカ」という女性が描きたいという欲望から出来ている。「崖の上のポニョ」だって、可愛いポニョが描きたいという気持ちがまずありきだ。
宮崎駿は、絵描きであってストーリーライターではないと考えている。印象的なのは常に絵であって、絵の迫力が凄すぎるがために、作品自体も別次元のものとなっている。ぼくはそう考えている。
その是非はさておき、「風立ちぬ」が製作されたモチベーションは「飛行機が描きたい!」あるいは「乗り物が描きたい!」ではないだろうか。実在した飛行機、あるいは夢の中に出てくる空想上の飛行機が、活き活きと描かれていた。
飛行機に対して何ら感慨を持っていなかったのだが、あれだけたっぷり見せられると、魅力がわかってくる。宮崎駿が、空を自在に飛び回る飛行機に対して、強く魅力を感じていることが伝わってきた。
宮崎アニメでは「飛ぶシーン」が必ず出てくるとされている。トトロまで飛ぶくらいだから、なんだって飛ぶだろう。と思ったが、「もののけ姫」では飛ぶシーンが出てこない。
あの作品は、製作に大失敗しているという批評をどこかで読んだが、ぼくもそう感じている。もしかしたら、製作の関係で泣く泣くカットしたのかもしれない。ジブリアニメが商業的に重要なものとなったのは、「もののけ姫」あたりからなので、作家の意志が通らないという場面もあったのかもしれない。
そして、「風立ちぬ」では好き勝手できるようになったのだろう。飛ぶシーンと飛行機だけではなく、汽車や船、挙げ句には牛車まで登場する。この映画は「乗り物スペシャル映画」だ。最初はそう感じた。
ドイツに視察にいくシーンは、ドイツ軍とドイツの爆撃機を描きたかっただけなんだろうと思う。「ああ、ただ描きたいだけなんだろうな」と感じられる描写が各所にみられた。
懐かしい日本。貧しかったけど夢があった頃の日本。その時の記憶と美しい情景。それが描きたかっただけなんだろうと。電車が大好きな幼児と同じようなノリで、飛行機が大好きでしょうがない永遠の少年宮崎駿の自己満足作品だろうと。しょうがない付き合ってやるか。それが前半の感想だった。
つまり、これは「紅の豚」のような作品ではないかと最初は思ったのだ。「紅の豚」では、アドリア海の美しい世界の上で、男の飛行艇乗りがロマンに生きている。主人公が豚であることを除いてはハードボイルドな作品で「飛べねぇ豚はただの豚さ」という言葉も妙に渋い。
極めつけは、ジーナさん。男の憧れが詰まったような女性だ。美しく、気高い。そして、弱くて儚い。強さと弱さを併せ持っている、いや弱いからこそ強くならんとしている。心に張りがある。
「紅の豚」には宮崎駿が詰まっている。空があり、飛行機があり、美しい女性がある。男のロマンがあり、失われた過去があり、戦争と戦争による傷跡がある。
「風立ちぬ」は「紅の豚」の続編なのだろうと感じたが、決定的に違う点がある。。
「風立ちぬ」には豚が出てこないのだ。
ファンタジー要素のない普通の世界
「風立ちぬ」の舞台は、戦前の日本だ。魔女は出てこない。瘴気を発する森も王蟲も出てこない。コダマもトトロもポニョもいない。ファンタジー色が一切ない作品だ。
唯一みられるのが「夢」の世界での描写だ。ここでは空想上でしか存在し得ない描写がいくつか見られる。しかし、かなり初期の段階で「ここは夢だ」と断言されているため、実際の物語とは一線を引いて眺める形になる。これは、ただのイメージに過ぎないのだなと見ている人が全員わかるようになっている。
主人公は地味な設計技師で、延々と飛行機の設計をしている。誰か敵がいるわけではないから、戦うために勇気を振り絞る必要もない。日本の原風景は見るのは非常に楽しかったが、なんと素朴な作品だろうか。
我々の祖父母の世代がこんなことを呟いていたことに実感が湧かない。日本は世界で第二位の経済大国になってしまったのだ。
貧しいながらも「飛行機を作りたい」という夢があり、夢のために着実に進んでいくために努力を欠かさなかった。技術を極めるためにいかなる労力も惜しまず、常に技術の向上を考えている美しき「職人」たちによって日本は世界に追いついた。
古き貧しき良き時代を生きた職人達の生き様を残しておきたいということなんだろうか。職人を豚にすれば、もう少しコミカルな味わいの作品になったかもしれない。しかし、それをしなかった。
俗に言うビン底メガネをかけた地味な青年が主人公だった。
主人公のジローは表現力も乏しい。名古屋に始めて来たシーンでの一コマ。
次郎「うん、来た。」
友人「いよいよだな。」
次郎「うん、いよいよだ。」
もう少し気の利いたセリフがあるだろうと思うが、これが古き日本らしさというものなのかもしれない。
夢を見失い奈緒子と出会う
空が飛びたい。けど、目が悪いから飛行機乗りになりたい。だから、飛行機の設計士を目指した。そんな地味な青年の物語が、突然転じた。
設計した飛行機のテスト飛行に失敗したのだ。飛行機は空中でバラバラになり、パイロットはパラシュートで脱出した。
そして、次郎は軽井沢の避暑地へと向かった。
この時、次郎は飛行機への情熱を失っていた。思い出してみて欲しい。次郎はどこへ行くときも必ず設計の資料や設計用具を持ち歩いていた。関東大震災のシーンでも設計に使う定規を、骨折の当て木に使っていた。後に奈緒子が喀血したシーンでも、カバンの中にありったけの書類を詰め込んでから向かった。
しかし、軽井沢には設計に使う道具を持って行った形跡はなかった(二回目を見ないと確実にそうだとは言い切れないのだが)。
夢を失い、空になった次郎の前に現れたのが、関東大震災の時に出会った少女里見奈緒子だった。森の中の水辺で「あの時の少女だ」と告げられたことで、次郎の中の何かが変わった。一言で言うと恋に落ちた。
だけど、この時点では、単に恋に落ちただけだろうと感じた。旅館へと戻る道で、突然の豪雨に見舞われる。大きな傘を差して、2人で雨をしのぐ。
雨が止む。
すると空に綺麗な虹がかかっていた。
と、次郎が呟いた。これだけのシーンだ。
虹とは、夢のことではないだろうか。
「設計士になる。空を飛ぶ。」という夢のことではないだろうか。テスト飛行に失敗し、打ちひしがれていた次郎は、いつしか自分の夢(=虹)を忘れていた。しかし、奈緒子と歩いたことで夢を思い出す。この時点で、奈緒子への気持ちは恋から愛へと切り替わりつつあったように思う。
自分の夢を思い起こさせてくれた女性に対する強い愛情が生まれつつあったのではないだろうか。
奈緒子との会食の約束がいつの間にか取り付けられるが、奈緒子は体調を崩し部屋から出られなくなってしまう。古き時代を知る人なら、この時点で悲劇の香りを感じたかもしれない。労咳(結核)ではないだろうか、と。
部屋に入ったまま出てこない奈緒子に対して、次郎は紙飛行機を飛ばそうとする。ありったけの思いを込めて。次郎は言葉で物事を表現しない。紙飛行機を作って、念を込めて飛ばすだけだった。
そして、紙飛行機は届いた。愛の思いが伝わったのだ。紙飛行機を通じたあのやり取りの中で、次郎と奈緒子は深く愛し合うようになっていた。きっと宮崎駿の感覚ではそういうことなんだろうなと感じた。
そして次郎が、例の淡々とした口調でいう「彼女を愛しています」。今まで感情を口に出さなかった次郎の突然の変化に正直驚いた。ショッキングですらあった。
そして、物語は宮崎駿の自己満足「乗り物大好きワールド」から突如転じる。
それまでは次郎の物語だったものが奈緒子の物語になった。男の子の物語から、大人の男女の物語になったのだ。
夢に向かう次郎。死を決して支える奈緒子。
娘が、父の意向を聞く前に交際相手を自分で判断するなどという行動は、当時の価値観を考えると考えられないことだ。そのくらい強い覚悟があったものと思われる。
そこからの物語は、常に悲劇の様相があり涙なくしては観ることができなかった。師の運命を背負ったヒロインが、かつて描かれたことがあっただろうかと考えたが、思いつかなかった。
奈緒子は、次郎と共に生きるために高山のサナトリウムに向かう。しかし、ある日、次郎からの手紙を読んで、突如名古屋へと向かった。何が奈緒子を動かしたのかはわからない。手紙に何が書いてあったのかもわからない。
もしかしたら、今取り組んでいる「零戦」の設計に苦労しているというようなことが書いてあったのかもしれない。奈緒子は自分の私利私欲では動かない。次郎のためになると思ったからこそ行動を起こしたのだろう。そのせいで、死が近づいてくることなど承知の上だ。
名古屋に着き、黒川さんの家で「盛大な」結婚式が行われる。死を決した花嫁は息を飲むほどに美しかった。なんというものを描くのか。止まらぬ涙の中、考えた。
これは「死の結婚式」だ。花嫁は近い将来に死ぬ、子供も作れない。
そこで、奈緒子がフラついたシーンが描かれた。奈緒子が、苦しそうな顔をしたのはこの時だけだった。病状は相当悪かったはずだが、苦しそうな顔をしたシーンが殆どないことに奈緒子の強い覚悟が伺えた。
そして、婚礼を終えると、初夜のシーンが描かれた。奈緒子の体調を考えると、その日はゆっくり休むべきだったはずだ。しかし、「来て」と短く言う。奈緒子の体調を心配して躊躇する次郎。しかし、もう一度「来て」と放ち、布団をめくると、艶めかしい肌襦袢姿で寝そべっていた。
黙って電気を消して布団に入る次郎。
ジブリ史上、例を見ない。まさかの濡れ場、エロシーンであった。ただし、奈緒子は疲労困憊の状態で、しかも結核に罹っている――。
その後、奈緒子が死ぬことを織り込んだ上で、日々の生活を大切に生きて行く2人の姿が描かれる。泣きながら見るしかなかった。
次郎の夢を支えるため、次郎と一緒に夢に向かうため、必死に生き続ける奈緒子。血の気がない顔色を隠すために、次郎よりも朝早く起きて化粧をして待つ姿は、まさに大和撫子というべきものだろう。
今になって思うが、奈緒子は次郎の夢を叶えてあげたい、支えてあげたいと思っただけなんだろうと思う。次郎の夢が叶う日、零戦のテスト飛行の日に、奈緒子は黙って家を出て行った。高山のサナトリウムに向かった。
何故その日に家を出たのだろうか。大喜びする次郎と一緒に過ごす時間があっても良かったのではないだろうか。夫婦で最後の時を過ごしても良かったのではないだろうか。何故あと一日、次郎の元に留まっていられなかったのだろうか。
まだ理由がよくわからない。
次郎が零戦の飛行テストを始めた頃、奈緒子は電車に乗って高山へと向かっていった。
零戦が空を飛び回っている時、奈緒子はどこにいたのだろうか。空を見上げていただろうか?
もしかしたら、次郎の零戦が見えたかもしれない。
自由に大空を飛び回る次郎の夢を、電車の窓から奈緒子も見ていて欲しい。これはぼくの願いだ。
「風立ちぬ」は夢の物語
近頃、ぼくはずっと夢について考えている。だからこそ胸に刺さった作品だった。夢についてはもう一記事書く必要があるので詳しくは書かないが、この作品は宮崎駿が夢について語ってくれた作品のように感じた。
宮崎駿少年は空を飛びたいと夢を見た。しかし、飛行機乗りにはならなかった。だけど、作家にはなることができた。そして様々なものを飛ばしてきた。メーヴェ、伝説の城ラピュタ、巨神兵、トトロ、魔女……etc
宮崎駿は、イメージの世界では何度も何度も空を飛んでいた。
つまり、夢を叶えたのだ。
夢は叶えられる!!!
夢に至るためのルートは様々あるのだ。宇宙に行くことを夢見たとしても、宇宙飛行士になるだけが解決策ではないのだ。
そして、夢を叶えるためには何をしたらいいのかについて、作品を通して何度も何度も繰り返し語られてきた。夢に向かってひたむきに生きる次郎の物語だ。
それだけではなく、夢を支えるという生き様の美しさも奈緒子の物語で語られた。
「風立ちぬ」は、宮崎駿の自己満足の作品ではなかった。そういう意味で、紅の豚とは全く異質なものだ。次の世代に対して、「夢に向かって生きる」ことを力強く叫んだ作品なのだ。
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この記事は、最初見たときの感想ですが、その後より詳しいものを書きました。ぜひこちらも合わせてお読み下さい。