善く生きることについて
善く生きるというのはどういうことなのかを最近考える。すなわち、充実して生きるということであり、幸せに生きるということに繋がるのではないだろうか。
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趣味でバスケットボールをする、野鳥を探す、釣りをする。このことによって人生が充足したなら、幸せな人生へと近づいていくことができる。逆に、趣味によってイライラしてしまったり、自己顕示欲が抑えられず人から評価されることだけにこだわってしまったりすると、それだけ幸せは遠ざかる。
鳥を観察するなんて優雅な趣味だろうと思う人もいるかもしれないが、持っている機材の高級さを自慢したり、貴重な鳥の写真を自慢したりしたいだけの人もたくさんいる。美しい声で鳴く鳥の声に耳を澄まさずに、大声で「俺の写真はよぉ~」などと自慢する人はなんと心貧しきことか。
何をやるにしても一番大切なのは自分の心との対話だ。他人の評価については、職務上などは気にしないといけない面も大いにあるかもしれない。しかし、趣味においては自分の満足度と向き合えばそれでいいと思う。
自分が満足して充実すればそこがゴールであって、それだけあれば人生は十分楽しめるはずだ。でも、一方で、誰かに伝えたい、話したいという気持ちも湧いてくるものだ。この気持ちは自然なものだし、悪いものではないだろうと思う。
思うに、この「人に伝えたい」と思う気持ちを、一回飲み込めるかどうかが一番大事なのではないだろうか。「俺は凄い、俺は偉い、俺はかっこいい、俺は誰よりも楽しい思いをしている!」そう内心で思うことは結構。だけど、そのまま口に出してしまうと、傲慢で自己中心的な人物という印象を与えてしまう。
自分の欲望をそのままさらけ出すのは人として非常にみっともないことだ。「あーーーー ビール飲みてぇぇぇぇ!!!!!!」と叫ぶことも時にはいいかもしれないが、その気持ちを一旦飲み込むことが大切だ。
その場にお酒が飲めない事情がある人はいないだろうか、今自分がいる集まりはお酒を飲むことが適切だろうか、こういった言葉遣いは受け入れられるだろうか。こういったことに思いを巡らせてから発言する思慮深さって殊の外大切なのではないだろうか。
これは口で言うほど簡単なことではないのだけど、人生を楽しく生きるために必要な技巧、あるいは心配りなのではないかと思うようになった。
空気を読むとか周囲に合わせるということは、一度自分の欲望を飲み込んで、周りと共有できるような形に加工して、みんなで楽しめるようにしよう努力だ。そして、努力しようと考える「心」の問題なのだ。
努力、努力と精神論で終えることになってしまうが、この世の中を快適に生きるためには、何をするにも努力をすることが必要なのではないかと思った次第。30歳を過ぎて、放っておくと心も身体も頭も衰えていくようになりつつある。それでも、子供のように日々成長していきたいと思っている。
自らを律し、他人に優しく、努力を怠らないようにしたい。それを今から10年単位で続けていきたい。
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