作文「ぼくの夢」


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本を書く。
作家になる。
これがぼくの夢だ。

誰が何と言おうと、これがぼくの夢だ。「おまえは本を書くべきではない」という友人とは付き合うつもりがない。方針が違う。もちろん、本を書こうとするよりも、書かないほうが賢い生き方だという理屈はあるかもしれない。しかし、どうして賢く生きなければいけないんだ。思うように生きたっていいじゃないか。夢を追ったっていいじゃないか。


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Choose your future, choose your life. 人生に何を望む?

ぼくは夢を描き、夢を追う人生を決断したのだ。
誰が何と言われようと動じることはない。
全力で走り抜けるだけだ。


この夢を描いたのは小学生の頃だった。卒業式の時に、壇上にあがり、「ぼくの将来の夢は小説家になることです!!」と大声で叫んだ。

しかし、中学生に入ってしばらくすると何も夢を見なくなっていた。夢ってのはそんなものだ。いつの間にか忘れてしまう、なくなってしまう。

中学では、サッカー部に数ヶ月入り長距離走をやっただけで辞めた。ゲームセンターに通いストリートファイターZero2をプレイした。ブルーハーツとイエローモンキーズを聴いて、「ぼくらの」シリーズを読んでいる間に終わってしまった。

高校では、無気力な帰宅部だったのだが勇気を出してギターを始めてみた。音楽の時間はとても素敵だった。高校の帰り道には、お茶の水のある楽器屋に用もなく立ち寄った。そして、とても買えそうにない高級なレスポールを眺めてはため息をついた。時々イングヴェイモデルのフレットが深いギターを試し弾きしてみることもあった。そして、バンドスコアを立ち読みして好きなリフを暗記した。

当時は、友達も少なく、趣味もなく、運動もしていなかった。好きといえることは何もなかった。ただ、音楽には出会えた。

最初に練習したのはXのSilent Jealousyという曲だった。XとLuna seaはバンドスコアを全部持っていたし、難しいパートとマニアックな曲を除いて(Rose of painとか)大抵の曲は弾けるようになった。

両手一杯に麻薬を抱えて自殺したカートコバーンを思いながら、ぼくもフェンダーのアンプを最大音量にして、重苦しいリフをかきならした。

Hellow Hellow How low?

卓越したオリジナリティを持つジミーペイジの才能に嫉妬しながら、天国への階段をコピーした。

お小遣いを叩いて買ったFazzのエフェクターを繋いで、Smoke on the waterを弾いたり、ジミ・ヘンドリックスの真似をしたりした。ジミヘンで1番かっこいいのはDay Tripperのカバーだと思っている。

高校の同じクラスのやつと小さなバンドを組んだ。好きな曲を持ち寄ってコピーしたので出鱈目なバンドだった。Thee michell gun elephantのバードメン、ゲットアップルーシー、G.W.D。GrayのSoul head。BlurのチャイニーズボムにSong 2。ミスチルのDance Dance Dance。

そんな時、第二回のフジロックフェスティバルに行った。第一回は富士山麓で行われ、台風に見舞われて地獄のような状況になったことが伝えられていた。その反省を踏まえて、第二回は豊洲の広大な空き地で行われた。

それが生まれて初めて参加した音楽ライブで、友人が出演する小さなライブを除いて、それ以降一度もライブには行ったことがない。元来引きこもり気質だし、一歩引いてしまう性質なのでうまく乗れない。腕組みをしてみているようなタイプだ。

朝一番でKemuriを聴いた。ふっふっふっふっ。
ステージを移動して、1番楽しみにしていたThee michell gun elephantを聴いた。これはなかなか凄かったが、人が多すぎる上に暑すぎたこともあったので、何度も演奏が中断された。水が撒かれた。後で聞くと、死者が出る恐れがあったという話だった。

ガタイのいい坊主の男が、周囲に体当たりしていたのが不愉快だった。ライブの楽しみ方がよくわからない。そういえば、当時メロコアバンドのライブで、ダイブした観客が首から落ちて半身不随になったという噂などを聞いたことがある。サッカーの試合もこういうノリかと思っていたので、実際に行ってみたところ非常に驚いたのだ(浦和レッズの時なんかは足首にテーピング巻いて行ったのだから)。拍子抜けするほど平和で、愛に満ちていて、それでいて熱かった。

さて、フジロックではベンフォールズファイブの最高の演奏を聴いて、全く人が集まっていなかった布袋のライブを聴いた。布袋も悪くなかったんだけど、客層とあってなかったみたいだ。Poisonが聴けたのは良かった。

Ian Brownのやる気のない歌を聴き終わると、人が集まってきた。Primal Screamの登場だ。Rocksが始まると、大地が大きく揺れ始めた。ぼくの身体も自然と動いた。なんだかわからないけど凄かった。

そして、日が落ちた後、Prodizyのライブが始まった。ぼくはこういうデジタルな雰囲気が好きではなかった。そのはずだった。しかし、あっという間に夢中になった。制止する警備員を振り切ってステージの近くまで突進していった。最初は腕組みをしていたのだが、いつの間にか滅茶苦茶に飛び跳ねて興奮していた。

自分ではないみたいだった。音楽は素晴らしい。

しかし、いつの間にかバンド仲間とは折り合いが悪くなり、修学旅行の途中に殴り合いの喧嘩になって消滅してしまった。

悲しかった。ぼくは、社交性が低いから誰かと組むのは難しい。当時は一日に何回もそう思っていた。ぼくのような人間がバンドを組むことは今後一生ないだろうと悲痛な気持ちで諦めた。

辛いときは、黒い衝動が胸の奥に湧き起こってきた。そんな時は、メタリカとかインペリテリとかアングラとかハロウィンとかガンマレイのような音楽を大音量で聴いた。

そのせいもあって難聴気味になり、未だにちょっと耳が悪い。

ひとりぼっちになった後、Eric Claptonを聴くようになった。薄暗い気持ちで聴いたアンプラグドは本物の音楽だった。優しく、切なく、悲しく、そして時折楽しかった。あのアルバムのレイラは凄かった。こういう格好良さがあるのか、としみじみと感じた。そして早弾きの練習をやめた。

辛い気分になったときは、大きな音でアコースティックギターをかき鳴らし、サンフランシスコベイブルースを大声で歌った。

そして運命のバンド、Blankey Jet Cityに出会った。それから1年くらいほとんど彼らの曲しか聴いていない。切なく、悲しく、楽しく、激しい。ぼくが音楽に必要としているものの全てがそこにあった。

と、同時に、ぼくは音楽をやめた。

自分には才能がないと思った。安易に才能という言葉を持ち出すべきではないかもしれないが、当時はそう思ったのだ。音楽のことを心から愛していたが、演奏者としての力のなさを感じた。歌もとてもじゃないがプロとしては使えるレベルにはならないだろうと思ったし、詩作も作曲も出来そうになかった。

また、どうにもリズム感が悪かった。天性の勘で合わせられる人がいる一方で、ぼくは集中して耳を凝らしていても、ちょっと気を抜くと走ったり遅れたりしてしまう。当時はトレーニングをせずに「才能」の一言で片付けていたなと今になっては思うが、当時は当時の理屈があったのだろう。ぼくはあまり賢い高校生ではなかった。

音楽では駄目だ。作家になるという夢はその時は思い出することすらなくなっていた。当時は運動もあまり得意ではなかった。だから、せめて勉強だけでもしようと思った。才能がなく、運動もできない自分が、勉強という誰でもできる努力すらしなかったら、自分は一体どうなってしまうのだろうか。

中間テストも期末テストも殆ど勉強しないで望むことがほとんどだったし、授業中はずっとマンガを読んでいたから成績は最低だった。酷いときは赤点が7個もあった。最終的に2つ以上あると留年が確定するので、結構なピンチだった

勉強をしよう……

人生で始めて本気で勉強して望んだ高校二年生、二学期の中間テスト。英語の点数は3点だった。100点中3点だ。もちろん赤点だ。ちゃんと勉強してもうまく出来なかった。

ああ、そうか、ぼくは勉強も才能がないのか……

泣きたくなったし、死にたくなった。そんな時に不幸は重なるもので、重度の肺炎になってしまった。2週間学校を休んだ。孤独で辛い時間だった。クラスメイトは誰も連絡してくれなかったし、久々に登校した時も「あ、そういえば、いなかったのね」という反応しかなかった。あんなに辛い目にあったのに、心配してくれる友人はいなかった。高校生の時は、とても孤独な時代だった。

寂しくて切なくてしょうがないから、誰かに会わないかなと思いながら、地元の町を自転車で無駄に回ったことも何度もあった。しかし、大抵の場合は誰にも出会わなかった。自分には何もないし、誰にも必要とされていない。自分に自信がない。能力にも、容姿にも、服装にも、言葉遣いにも何もかも自信がなかった。だから、人前ではおどおどしてしまう。

どうにもならない。この世界から消えてなくなってしまいたい、毎日そんなことばかり考えていた。AKIRAみたいに巨大な力があったら、世界をぶちこわしてしまいたい。そう願った。手の中で大きなエネルギーが膨らんでいき、「オ、オ、オ、オ、オ、オ」と言っているうちに周りの世界が全部壊れてしまえばいいのにと思っていた。

そんな中、当時好きだった漫画「るろうに剣心」で紹介されていた司馬遼太郎の「燃えよ剣」という作品をたまたま読んだ。土方歳三の熱い生き方、あるいは死に様が格好良すぎて身もだえた。

プライドに生き、プライドに死ぬのだ。

ぼくは佐幕派になった。滅び行く江戸幕府の哀愁と、最後まで戦い続けた新撰組という存在にみせられ、勤王の志士などというものは悪者だった。しかし、悪役のこともよく知らなければいけない。悪の親玉の1人のことも調べてみよう。と思い、「竜馬がゆく」を手に取った。

それが、肺炎で床についていた時のことだった。肺炎というのは辛いもので、しょっぱいものを食べると咳き込んで動けなくなる。それだけじゃなくて、しょっぱいものを想像しただけでも数分咳き込んでしまう。労咳(結核)になった沖田総司はどんな気持ちで戦っていたのだろうか。

「竜馬がゆく」は、これは史実に基づいていない記述も多く、歴史書ではない。しかし、幕末史の全体像が俯瞰できるという意味では優れた本で、司馬遼太郎という歴史小説家が幕末の魅力をどこに見ていたのかを知ることが出来る。

小説の中で、坂本竜馬は夢を見ていた。海を渡り、世界中と通商するという夢を描いていた。そして、その実現のために全力を尽くしていた。自分の生まれ育った土地を捨てて、広い天地を住処として、自分の夢の実現のために走り続けた。

そして、夢が叶おうとする瞬間に、刺客に襲われて命を落とした。

「あー……竜馬が死んでしまった……」

涙が止まらなくなった。あんなに頑張ったのに、もう目の前まで来たのに……なんで、どうして……

若かりし日々、坂本竜馬は誰にも理解されずに孤独な時を過ごしていた。

「世の中の人は何ともいわばいえ 我が為すことは我のみぞ知る」

16歳の時に竜馬が残した詩をノートに何度も書いた。そして、ぼくの戦いが始まった。出来るか出来ないか、才能があるかないかではない。やるかやらないか、だ。

出来るか出来ないかではない。やるべきかやらないべきかだ。もし、やるべきことならば、実現可能性を問うよりも行動に移すべきだ。

戦わなければならない。戦闘、開始。

自分はどこまでいけるかなんて計算する必要はない。行きたいところを思い描き、そこに向かって必死に手を伸ばすだけだ。手を伸ばせば届くかもしれないじゃないか。でも、手を伸ばすことを恐れてしまっては、誰かに笑われると怯えてしまったら、どこにも行くことができない。

坂本竜馬は剣術で人生を切り拓いた。ぼくも真似をした。真冬の空に下、上半身裸になって、裸足で外に出た。延々と竹刀を振った。どれだけ寒くても、気合いを入れて剣を振れば、寒さなど感じなくなる。

これだ。全力でやれば何だって出来るはずだ。目標を語ることを恥ずかしがってはいけない。ぼくは早稲田か慶応に行くと宣言した。クラスメイト達は大笑いした。何故ならぼくの成績は、学年約100人の中でほとんどビリのほうだったからだ。

担任に大学受験をしたいと告げると、おまえの成績なら就職したほうがいいと勧められた。しかし、そんな言葉には負けない。ぼくの戦いは始まっていたのだ。

成績は惨憺たるものだった。英語の偏差値は見事に30台だった。無理もない、当時のぼくは「動詞の過去形」すらよくわかっていなかったのだ。そりゃにわか勉強しても赤点を取るわけだ。I my meとか三単現のsとか疑問文の作り方のような中学生の最初の方で習うことがわかっていなかったから、仮定法のテストで成績が取れるわけがなかったのだ(仮定法では、時制、助動詞の知識が不可欠)。

そこからやり直した。やり直すしかなかったのだ。普通に考えたら、無難な大学を志望校にしたほうがいいだろうし、誰からもそれを勧められた。しかし、ぼくは聞かなかった。男児が一度口に出した目標を軽々しく取り下げるべきではない。諦めるときは死ぬときだ。

このように始まったぼくの戦いは結局3年間も続き、最終的には東京大学の文科Ⅱ類に辿り着いた。東大を受験することになるなんて、戦いが始まったときには想像もしていなかった。

二浪する羽目になるとも思わなかったし、1年間で数学を東大レベルまで仕上げるというウルトラCが出来るとも思わなかった。最初は分数の足し算も出来なかったのだから奇跡としか言いようがない。

「そりゃ地頭がいいんだね」と言われることもある。もちろんゼロではないと思うけど、ぼくより地頭がいい人なんて掃いて捨てるほどいる。それに賢い判断をする人は、二浪目から5教科増やして東大を受けるなんていう狂った選択もしない。

そういう問題じゃないのだ。モチベーションの量の問題だ。

モチベーションを高めることが出来れば人は絶大な力を発揮することができる。だから、人生で成功を収めようと思ったらモチベーションを高めるのが1番だ。そして、モチベーションを高めるには、夢を思い描くのは有効な手段だ。

あるいは、方法論の問題だ。

夢を思い描いた後、それを達成するために綿密な計画を立てる必要がある。ぼくはそれをやった。後はやり通すだけだ。

誰がなんと言おうが、自分がやりたいことなら胸を張って貫く。その覚悟があれば、成功はぐっと近くに寄ってくる。仮に失敗したとしても、どこかには辿り着くことができる。何もしなかったら何処にもいけない。

ほとんど休みなく、机にかじりついた日々。辛い日々だったようでそうでもなかった。共に戦う仲間もできたし、目標に向けて努力を続けることはとても楽しかった。誰のためでもない、自分のためだけにやるのだ。

ぼくの3年間の挑戦はハッピーエンドを迎えた。誰も予想していなかった大革命を成し遂げた。しかし、そこから歯車は狂い始めた。

東大に入るというのはぼくの夢ではなかった。東大に行かなければいけない理由など何もなかったのだ。目標を失い、突然失速した。酒を覚え、酒に溺れた。鬱々とした毎日を送り、講義をさぼっては駒場キャンパスのベンチでカラスとにらめっこしていた。

東大に行くと優秀な奴が山ほどいる。もうタレントになったから名前を出していいと思うんだけど、元財務官僚で、現在は弁護士でありながらタレントとしてクイズ番組などに出演している山口真由さんとはクラスが同じだった。今は接点がないが当時は仲間内で親しくしていた。

wikipedia:山口真由

彼女は本物の天才であり化け物だった。ぼくらは東大に入ったわけだから、自分のことがそれなりに頭がいいという気持ちを持っていたはずなのだが、あっという間に自分が凡人だと気付かされた。勝負にならない。まるでモノが違う。

どんなに努力しても絶対に勝てない。普段はおっとりとして可愛らしい雰囲気なのに、一度スイッチが入ると猛烈な速度で言葉が飛んでくる。そして、その全てが論理的な整合性を持っていて、一部の隙もない。頭が良すぎる。

彼女は例外中の例外で、東大史上に残るような頭脳だと思うが、それ以外にも頭が良いやつが大勢いた。ぼくは凡人中の凡人で、理解力が低く、講義にもついていけない落ちこぼれになった。

予備校では、スーパースターに登り詰めたのに、東大ではただのバカだった。人生の目的もなく、ただ劣等感だけが増していった。

テストの日程を確認したり、単位を取り集めたりする気力も失い、あっけなく留年した。大好きだった音楽は、受験戦争の開始を機に辞めていたから、何もすることがなかった。お酒の飲み方も段々激しくなっていった。

そんな時日韓ワールドカップが開催された。サッカーはあまり好きじゃなかったのだが、講義もほとんどさぼっていて暇だったのでテレビで観戦していた。イタリア対韓国の時は、発泡酒3本とボンベイサファイアというドライジンを1本買ってきた。

目の前には地獄があった。

トッティがレッドカードを出された時、憤りに叫んだ。イタリアの王子様は沈痛な顔をして、ピッチの外に去って行った。サッカーというのはなんて野蛮で邪悪な競技なのだと思った。イタリアが負け、沈痛な表情で去っていくのを見て、心の底から嫌な気持ちになった。

テレビで観るサッカーの試合は、何の救いにもならなかった。ワールドカップはテレビで観ていたが、サッカーはあまり好きではなかった。好きになるのはそれから10年後のEURO2012の頃からだった。

ぼくは相変わらず鬱々としていて、何も目的が見いだせず、ただ苦しいだけの酒浸りの日々を過ごしていた。本当にイケメンに生まれなくて良かったと思う。こういう精神状態の時に、顔だけでモテるという事態になっていたら本当に腐った人間になっていただろう。

その後は、弁護士になることを唐突に思い立ち、半年くらい勉強するもやめてしまったり、海上自衛隊の幹部候補生を受けて最終面接で落ちてしまったり、出版社やテレビ局などの面接に言ってボロクソに言われて泣いて帰ってきたりした。何をやっても成功しないし、途中でやる気がなくなってしまう。

1番成功したのはネットゲームかもしれない。サーバーでも最強と呼ばれるキャラの1人になってしまった。どうしようもない過去だ。

エッセイストみたいになれたらいいなと思ったこともあったのだが、その時ホームページ「鳩ノ巣」に書いていた文章はお世辞にも良いものではなかった。自分でヘタだとわかるくらいだからろくなものじゃない。

卑屈だったし、自分より見栄えの良い人はみんな憎く思えたし、書くものは誰かに対する火の出るような非難であることも多かった。目標がないのは本当に辛い。

そんな中バスケットボールに出会えたのは本当に運が良かった。ネットゲーム仲間に誘われてmixiを始め、そこで偶然目にした「安西先生バスケがしたいです」というふざけた名前のコミュニティのイベントにいかなかったら、バスケをすることはなかっただろう。

そこで出来た友達には一生の付き合いになりそうな人も含まれている。不完全で、周りと喧嘩ばかりしていて、でも下手クソなりにバスケには真剣に取り組んでいたぼくのことを好きになってくれる人がたくさんいた。仲間が出来た。もちろん、大学にも友達がいたしまだ続いている。けど、バスケの仲間は別なのだ。共にスポーツをする仲間は特別なのだ。

チームを作ったり、いざこざがあってチームを抜けたり、また新しくチームを作ったりした。

うまくいかなかったときに、大泣きしながら説教してくれた友達は今は遠くに引っ越してしまったけど、この間家族を連れて会いに行った。豆みたいに小さな子供達が2人で遊んでいる間に、ぼくらはたこ焼きをつつきながらビールを飲んだ。

バスケをしていなかったら彼女と仲良くなることはなかっただろうと思うし、家族ぐるみで付き合うこともなかっただろう。旦那さんは、元々名のあるサッカー選手で、奈良クラブの元締め(?)的な方と親交があるらしい。取材を申し込んだら実績のないぼくでもOKしてもらえるかもしれない。良い関係が1つあると色んなものが繋がってくる。

バスケによって将来的には豊かな人間関係が築かれてることになったのだが、それは随分後のお話。当時としては、バスケを楽しみながらも人生の駒を進めていかなければいけない。

色々あって文学部に進学し、宮澤賢治の卒業論文を書いた後、東大農学部の研究所に入った。入学するためには、英語、生物、専門科目のテストがあったのだが、大学院受験なんて簡単なものだ。1ヶ月のにわか勉強で合格することができた。研究者の職は1つしかないし、それなりに能力が高くないとなれないのだから、入学試験でもっと強い淘汰圧をかけるべきだとぼくは思っている。

ともあれ、文学部から理系の大学院という離れ業をやってのけ、研究者を目指して努力をすることになる。楽しいこともたくさんあった。研究という知的活動はとても楽しかったし、十分な適正があったと思う。しかし、環境にはうまく適応できなかった。

研究の世界はあまりにもネガティブだ。研究業界を取り巻く状況もネガティブだし、人々の話題もネガティブなものが多かった。夢を語る人よりも、同僚や競合研究者の陰口を言う人のほうがぼくの周りには多かった。その場では同調することもあったが、心底うんざりしていた。

そして、何よりも、気付くと陰口や不満ばかりを言っている自分がいることに気付いてうんざりした。ここにいては駄目だ……とは思うものの、年齢は30になり、今更に他のことに挑戦する勇気も持てなかった。

研究業界では、修士課程を暫定トップの位置で懸け抜けた。奨学金の返還を免除され、将来を期待されていたはずだ。しかし、その後は完全にモチベーションを失ってしまった。知らぬ間に心は傷ついてボロボロになっていた。

ネガティブな言葉ばかり浴び続けた4年間だった。少しばかりいいことがあってもザラりとした辛い経験があると全て吹き飛んでしまう。ブログだけが心の支えだった。ブログに文章を書いている時だけが唯一解放される時間だった。しかし、ブログは監視されていて、研究世界について都合が悪いことを少しでも書くと、ブログをやめろという圧力が加えられた。

でも、ぼくはそこだけは断固拒否した。上からの命令にノーと言うと、将来が断たれるリスクが高かった。しかし、書くことだけはやめたくなかった。何度もブログをやめろと言われたが、二回は教員室に呼ばれて2時間近く説得された。ブログを書いてもプラスになることはないからやめろ、と。

でも、ぼくは絶対やめるとは言わなかった。研究者になるという目標を捨てたとしても、ブログを書く方を優先したかった。

書くことだ。

ぼくには書くことしかできないのだ。

書くことこそ、ぼくの生きる道だ。書くことで勝負してみたい。

研究世界を去ることにした。途中でモチベーションを失っていたためぼくの研究はだいぶ遅れていたが、「おまえの能力なら今からでも大丈夫だ!」と言ってくれた教員はきっと良い人なんだろうと思う。

しかし、研究業界に夢はない。ぼくはそう感じた。そう思わない人もいるだろうが、そういう人はぼくに文句を言っている暇があったら自分の夢に向けて突っ走ったらいい。ぼくの言うことが気になるというのは、自分でも疑問を感じているということだろう。

「おまえの書いたものなんか読みたいと思う人はいない。少なくとも俺は読みたくない」複数の人から言われた。ネガティブな否定から入るのが研究世界の流儀だ。強力な否定を跳ね返せた場合にはじめて「ふむ、考えてもいいかな」と思う。そういう習慣が自然とつくのだ。

何人もの人が寄ってたかって否定して、ありとあらゆる知恵を尽くしてNoと言ったとしても、それを全て弾き返して立っていられたものが妥当性が高い研究結果なのだ。

それは手続きとしては正しいのかもしれない。でも、否定され続けるのは人間の感覚としては不愉快さを伴うもので、研究者の適正というものは不愉快に対する鈍感さなのではないかと思っているくらいだ。

ともかく、ぼくに言わせれば「ネガティブだらけの世界」を去ることにした。それから9ヶ月経つが後悔したことは一度もないし今後もないだろうと思う。日々が経つと共に鬱屈した感覚が抜けていくのがわかる。

ぼくは、書くことが得意だった。だから、ライターとしてなら生きていけるかもしれないと思った。ウェッブ上で募集されている仕事に応募した。学術論文を要約してキャッチーでわかりやすい記事に変換する仕事や、翻訳、英語で色々なことを海外に発信する仕事、ステマ的な文章の作成依頼、日本各地の文化の紹介と色々やった。

しかし、そんな仕事をいくらやっても、本を書くという夢には近づいていける気がしなかった。自分の書きたいことを書かないと行けない。メインのライター業務の合間に好きなことを書くのは難しいことだ。「趣味だと思ってさらりと書けばいいんじゃない?」と言われたことがあるが、それには本気で憤った。

さらりと文章を書くことだって出来るかもしれない。しかし、それはどこにも繋がっていかない。自分の心の中から必死でひねり出して言葉を紡いでいかないと、作家になるという夢には決して届かないだろう。

今は、かつてないほど夢に近寄っているような気がする。あの宇都宮徹壱さんに、「是非ブックライターを目指して頑張って欲しい」と激励され、必要なら編集者さんを紹介してくれるとまで言ってもらえたのだ。徹マガという業界人はみんな読んでいる有料メールマガジンに「ぼく自身のストーリ-」が掲載してもらえることになった。ついこの間まで細々とブログを書いていただけなのに。

サッカーに喩えるなら、PKのキッカーとして選出されたようなものだ。後は勇気を持って蹴り込むだけなのだ。

もちろん、シュートは大きく外れるかもしれない。それは悲しいことだが落胆することはない。再びペナルティエリア内まで攻め込んでいくだけだ。ぼくの人生はまだ終わらない。何度だって蹴り込んでやる。それがぼくの夢だからだ。

本を書く。
自分の本を出版して、本屋さんに並べる。
今はそのために生きているのだ。

誰に何と言われようが負けるものか。進めば進むほど風あたりは強くなるだろうが、決して負けてはいけない。下がって生き延びるよりも、前に進んで死ぬほうがいい。そのくらいの覚悟がないと物事は達成できない。

かつて、音楽の才能がないと諦めたことがあった。でも、音楽に生きることが夢だったなら、十分可能だったのではないだろうか。少なくとも、音楽ライターにはなることは出来たような気がする。突き抜けるまでやり通す覚悟がなかった。

今は覚悟はできている。

「本を出版するのは金儲け色が強すぎてイメージ悪くするよ、やめたほうがいい」

そういうアドバイスをくれる人もいる。しかし、ぼくはたとえ世界中の人を敵に回したとしても自分の本が出したいのだ。これはぼくの戦いだ。イメージとか人気取りとかそういうことを考えちゃいけない。

戦い続けるだけだ。最後の最後まで戦い続けていたら、必ず応援してくれる人もいるだろうと思う。人気ってのは後からついてくるものであって、最初から計算するものじゃない。仮にうまいこと計算して人気を得たとしても、最後まで走り続けない軟弱者だったら、いずれ化けの皮が剥がれるだろう。

自分の本を書く。

その夢が叶う日が来たら、心の底から喜んで、家族や大好きな友人達と祝杯をあげる。そして、次の夢を思い描くのだ。

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