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信念 映画論

「誰が風を見たでしょう」風立ちぬの名言から宮崎駿の真のメッセージを読む

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誰が風をみたでしょう ぼくもあなたも見やしない
けれど木の葉を震わせて 風は通り抜けていく
風よ翼を震わせて あなたのもとへ届きませ

この誌と主題歌「風立ちぬ」だけで涙腺が緩んでしまう。この誌はクリスティナ=ロセッティという方が作詞、訳出は西條八十という方。しかし、最後の2フレーズは原詩にはなかったのでオリジナルかもしれない。

「風立ちぬ」については以前にも記事を書いた。

「風立ちぬ」は「紅の豚」の続編ではない

この記事に書いた感想は、今思うと表面的であった。

初めて「風立ちぬ」を見てから、この映画は何だったのだろうかと考え続けることになった。考えがどうしてもまとまらないのでもう一度観に行った。

二回目はちょっと危険な領域に踏み込んでしまった。始まった瞬間から涙が止まらないのだ。なんと凄い作品を作ったのだろうか。

ここには一切のポピュリズムはない。つまり、映画『風立ちぬ』は大衆に迎合していない。宮崎駿の中にあるテーマをすべてそのまま出し尽くした作品だと感じた。

「我々は映画を観たのではなく、宮崎駿という人間を観た。」

風立ちぬは、宮崎駿という人間そのものである

ところで、「自己紹介」は得意だろうか? 

30秒や1分のスピーチで、自分のことを全て語り尽くすことはできますか? 自分を完全に理解してもらうことはできますか? これは絶望的なまでに不可能なことだ。自分の良い点、悪い点を整理して短く話すなんて事は難しいし、そもそも自分のことをちゃんと理解いるかだって怪しい。

もし、それが出来るとしたら、長い時間をかけて、文字通り人生をかけて「自分とは何であるか」という問いを立て、その問いと戦い続けてきた者だけだろうと思う。

宮崎駿は紛れもなくそういう類いの人だろうと思う。その一つの結論がこの作品である。自らを問い続けた彼の人生と、その結晶とも言える最後の作品に対して深い敬意を覚えるし、その凄まじさには、ただただ、感動することしかできない。

「芸術とは人間を表現したもの」であるが、この映画は芸術表現の極みだろうと思う。

とはいえ、この映画は実に駄作だと思う側面も実はある。時系列は整理されておらず、何がどうなっているのかわからない。飛行機作りの話なのか、結核を患った女性との恋愛の話なのかがはっきりしない。そして、声優があまり上手ではない。

時折出てくる「夢」の描写の意味がわかりづらいのに、物語の中で重要な役割を担っている(夢落ちをはじめ、夢に頼ったストーリー展開は駄作の証明だと思っている)。

風が吹く、タバコを吸う。そういったシーンもあるが、描写の意味がいまいち伝わってこない。

わかりづらい作品だと思う。完全なる理解など出来た人はいないのではないだろうか。しかし、それでいいのだろう。人間に対する完全なる理解など不可能だからだ。

たとえ2時間の時間を与えられて自己紹介をしたとしても、自分を完全に表現することは出来ないし、聴いている方だって理解することは出来ないのだ。

 

「風立ちぬ」は、宮崎駿そのものだ。
これを前提としよう。

その中で宮崎駿が表現したかったものは何なのか。

  • 乗り物大好き、飛行機大好き
  • 戦争兵器大好き
  • でも、戦争自体は大嫌い(大矛盾)
  • 貧乏だった日本
  • 悲惨な境遇にあった日本
  • 関東大震災
  • それでも強く健気に生きる日本人
  • 知恵と努力で乗り切っていく日本人
  • 職人の魂
  • 何故それが出来たのか。日本人の胸には夢があったからだ。

思いつく限りに並べてみるとこんな感じだろうか。
宮崎駿のアイデンティティーは、貧乏で悲惨な時代であっても「夢」を忘れずに生きて来られたことなのかもしれない。

宮崎駿がやりたかったのは「戦争」でも「商売」でもない。夢を追うことだった。そしてそのために、アニメーターとしての技術を極めて行くことだった。

でも、例えば「宮崎駿物語」みたいな作品にしてしまうと照れくさくなってしまうから、実在の人物であり、宮崎駿が大好きなゼロ戦という戦闘機の設計者である堀越二郎という人をモチーフに作品を作ったということなんだろうと思う。

人間に対する感じ方は人それぞれ違う。

例えばタモリという芸能人に対して「ひょうひょうと生きている人」「自由人」と感じる人もいれば「器用な役者」と取る人もいるだろうし、「職人」だと考える人もいるかもしれない。「温かい人」と感じる人もいれば「他人には何も求めない冷たい人」と感じる人もいるだろうと思う。

「風立ちぬ」は宮崎駿そのものが表現されているものなので、人によって感じ方は全然違うのが当たり前だ。奈緒子に感動する人もいれば、下手な声優だと怒る人もいる。タモリの感性に感動する人もいれば、タモリはテンションが低くて面白くないと言う人もいるのと同じように。

さて、ぼくはどう感じたのかというと……

 


 

カプローニという代弁者

二回目を観た後で感じたのは、この映画の一番大切なことは全部カプローニが語っているということだ。カプローニというのは設計家の大先輩で、夢の世界に度々登場した人物だ。

カプローニが登場したシーンを思い出してみよう。

・最初のシーン

荒野を飛ぶ飛行機に乗るイタリア語を話す男。最初は話が通じないがすぐに日本語で話せるようになる。夢の世界だしね。

「この世は夢 我が王国へようこそ
旅客機 これは私の夢だ」
 

「爆弾の代わりにお客を乗せるのだ」

戦争の道具としての飛行機が最初に出てきた後で、旅客機を作るという夢を語られる。

「飛行機は戦争の道具でも商売の道具でもない。
飛行機は美しい夢だ。設計家は夢に形を与える。」

これは何度噛みしめてもいい素晴らしい言葉だ。

宮崎駿に引き寄せると「映画は商売の道具じゃない。映画監督は夢に形を与えているんだ。」ということだろうか。これは「もののけ姫」以降、大規模な商業主義に巻き込まれていったことに対する苦みを感じさせられた。

このシーンのあと、二郎は母に向かって「設計家になります!」と言う。

すると母は「素敵な夢ですね」と答える。

この物語には「夢を否定する大人」が登場しない。

多分この時代においては、夢を語る子どもは大人の説教を食らったものだと思う。そりゃそうだ、ぼくらの世代だって同じ事だ。子どもがある日突然、宇宙飛行士になりたいのでアメリカに留学したい。年間に500万円かかるから出してくれと言われたら、かなり苦しいのではないだろうか。

だから、母親ではなく父親には大説教をされた可能性もある。しかし、そういった大人は映画の中には登場しない。都合の悪いものは見せない。いや、二郎の目には見えない。二郎の目には自分の夢しか見えていない。この盲目さが非常に美しい。

・二回目の登場

「まだ風は吹いているか日本の少年よ!」
 
「はい、まだ風が吹いています。」
 
「では生きねばならん!」

ここで提示されるのは、風の意味だ。

風とは、夢を目指すことであり、生きることである。さらに言うなら、生きるというのは夢を追うことである。

夢を追っていないなら、飛行機を作るという夢を諦めたなら、生きていなくてもいいよと言っているようにも読める。

ぼくは最近「作家になる」という夢を口に出すようにしているし、そのテーマを追って生きて行こうと誓った。そういう自分だから、このように感じたのかもしれない。宮崎駿はこう語りかけているのだ。

「私のように夢を追って、テーマを追って生きていないと、人生なんて無価値なんじゃないか?」と。

もちろんそんな具体的な言葉にすると険が立つし、伝わるものも伝わらなくなるから、「まだ風は吹いているか?では生きねばならん!」という言葉に変換しているのだろう。

・3回目の登場

「まだ風は吹いているかね?」
 
「はい、吹いています。」
 
「設計で大切なのはセンスだ。センスは時代を先駆ける。技術は後からついてくる。」

これも映画に変換すると、宮崎駿自身のことを言っていることがわかる。宮崎駿が描きたいアニメ世界というのは昔からずっとあったのだろうが、それに映像技術が追いついていなかった。しかし、こういうものが表現したいという「センス」があれば、後から技術が追いついてくる。

大切なのは「センス」だ。しかし、センスとは何だ。この映画のキーワードは、この「センス」なのだ。

「空を飛びたいという夢は呪われた夢である」
 
「ぼくは美しい飛行機を作りたいと思っています。」
 
「ブラボー 美しい夢だ。創造的な人生の持ち時間は10年だ。設計家も芸術家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい。」

持ち時間は10年だ。この言葉。持ち時間は10年しかない。この言葉に打ちのめされた。他の人がどう思ったかわからないが、ぼくにとって「風立ちぬ」はこの言葉のためだけにあるような気がする。

センスは10年だと言われても、根拠は全くない。しかし、妙に納得させられるものがある。センスが伸びていく期間というのは10年しかないんだと言われると、きっとそうなんだろうと感じる。少なくとも、宮崎駿はそう感じているし、信じている。それだけではなく、今の若者たちに伝えようと渾身の一作を作った。

10年。10年しかないのだ。
力を尽くさねばいけない。寄り道をしている時間はないのだ。
ぼくでいうと書き物ということになるのだが、ここまでの覚悟はなかったかもしれない。

文章を書くと言うことで勝負できる時間は10年しかないのだ。今、全力で書かなかったら、何にもなれずに終わってしまうのだろう。

その後、奈緒子が登場し、別の物語が始まる。設計家立志編から奈緒子編へと移行していく、堀越二郎から堀辰雄へと移行していく。

その間、カプローニは出てこない。代わりにカタコトのドイツ人カストルプが登場するが、カプローニとは役割は異なっている。

・最後の登場シーン

ゼロ戦がテスト飛行に成功した日に奈緒子の命は尽きた。戦争が始まり、ゼロ戦は華々しい活躍をするが、終戦に近づくと戦力外になっていく。

このへんの描写はほとんどない。史実を参照せよというところだろうか。一応言及しておくと、初期の頃は、ベテランパイロット勢の活躍もあり、ゼロ戦は大活躍するのだが、次第に弱点が明らかになっていくと、撃墜されることが増えていった。

そして、奈緒子は「あの日」に恐らく「自殺」しているのだが、そのへんもほとんど描写がない。

テスト飛行の日に「二郎を送り出し」、「その後哀しい表情をして」、「身辺整理をして」、「遺書らしきものを残し」、「近くを散歩するとウソをつき」、「荷物を持たずに手ぶらで」、「バスに乗らずに徒歩で」外に向かっていった。

ゼロの飛行が成功した後、二郎は遠くを見て放心した。ここに理屈はないが、恐らく遠くで奈緒子が死んだことを予感したのではないだろうか。それ以外に、二郎が放心した理由は考えられない。

妹の加代が「山に戻っちゃった。」というようなことを言う。二郎は山のほうを見て放心する。

前回の記事では、電車で山に戻るのかと考えていたが、二回目を見た結果、確信した。奈緒子は自分が死ぬことはとっくの昔に覚悟していたのだろう。

命と引き替えに、二郎の夢を支えようとした。それが終わった日、自分の役割も終わったのだ。だから、自ら命を絶った。今後生きていても二郎の負担になるだけだから。

ともかく……奈緒子との悲しすぎる別れが示唆されたあと、カプローニが登場する。

「やぁ、来たな、日本の少年」

「ここは私達が初めてお会いした草原ですね」

「我々の夢の王国だ」

「地獄かと思いました」

「ちょっと違うが、同じようなものかな。
 君の10年はどうだったかね?力を尽くしたかね?」

「はい。終わりはズタズタでしたが」

「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは。美しいな。良い仕事だ」

「一機も戻って来ませんでした」

「往きて帰りし者なし。飛行機は美しくも呪われた夢だ。大空はみな飲み込んでしまう。君を待っていた人がいる」

「あなた。生きて。生きて!」

「うん。うん。」

「行ってしまったな。美しい風のような人だ」

「ありがとう…ありがとう」

「君は生きねばならん。その前に、寄っていかないか?良いワインがあるんだ。」

このシーンは暗示的で、明瞭には解釈し切れない。含蓄はあるが、あまり意味がないようにも思える。夢を追い求めて全力で生きたならば、10年間の持ち時間に力を尽くしたならば、後はどうでもいいのだろう。

起きている時間は常に設計図に向かうような生き方をしなくても、ワインを飲んでのんびりする時間はあるのだろう。逆に言うならば、力を尽くして10年を生きていなかったクリエイターもどきはワインなど飲んでいる暇はないとも言っているのかもしれない。

そして、例の誌が朗読され、主題歌が流れる。

 

誰が風をみたでしょう ぼくもあなたも見やしない
けれど木の葉を震わせて 風は通り抜けていく
風よ翼を震わせて あなたのもとへ届きませ

 

この誌と主題歌「風立ちぬ」だけで涙腺が緩んでしまう。この誌はクリスティナ=ロセッティという方が作詞、訳出は西條八十という方。しかし、最後の2フレーズは原詩にはないようなのででオリジナルかもしれない。

カプローニは、宮崎駿に代わって、我々に、いやぼくに対してメッセージを投げかけてくれたのだ。

「創造的な人生の持ち時間は10年だ。設計家も芸術家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい。」

自分のセンスを伸ばすために出来ることはなんでもやろう。10年を必死に生き抜こう。10年というのは一つの喩えであって、人によっては5年だったり20年だったりするだろうと思う。しかし、限りがあるという意味では全員同じだ。

ぼくの持ち時間が後どのくらい残っているのかはよくわからない。しかし、全力で生き抜かねばならぬ!!

ぼくには夢があるし、やりたいことも山ほどあるのだ。夢を恥じている時間もないし、堕落している時間もない。必死に、全力で追い求めないといけない。この作品に出会えて良かった。本当に良かった。宮崎駿と同じ時代を生きていることが出来て本当に良かった。

自分の10年が終わったら、今度はワインでも飲みながらこの映画を見ようかな。その頃にはきっと良いワインが買えるようになっていることだろう……

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五年後の追記

この記事を書いたのは2013年の9月で、今は2018年の10月。約5年後にこの記事を読み直して、追記を書いている。

この記事を書いたことで、1記事1記事に魂を込めようと強く誓った。そうしないと何も変えられないと思ったからだ。今から10年間、自分はどこまでいけるだろうか。不安だったし、自信もなかったが、とにかく文章だけは一生懸命書くことにした。

そして、この記事から約1ヶ月後に書いた記事が、20万ヒットのバズ記事となって、そこからあれよあれよと書籍を執筆することになり、夢のステージである「作家」へと上がっていくことが出来た。

映画『風立ちぬ』に出会ったからこその大躍進ではあったが、同時に苦しみの始まりでもあった。センスは10年、という題目のもとに、技術を突き詰めていくようなやり方では、あまりお金が稼げないのだ。

正直言って苦しい期間が長かった。注目度は高まり、記事や講演の依頼も増えたが、収入は伸び悩んでいた。それでも、センスを伸ばすこと、文章に向き合うことだけは忘れずに、ずっとずっと大切にしてきた。

この記事はおよそ6000字だが、当時は必死に書いた長文だった。しかし、今ではもっと卒のない流れのある文章を倍の量書くことも出来るようになった。それも、はるかに短時間で。

センスは10年。
この考え方は効率性を下げるのではないかとも思う。表現すること、努力することの苦しみを増加させていく方向に作用するかもしれない。

それでもぼくは、『風立ちぬ』に出会って良かったし、不器用ながらも自分のセンスと技術を磨くことに向き合ってきてよかったと思う。

文章力など不要であると言われる時代に、文章と向き合い続けたことは、生涯年収を最大化することにはあまり貢献してくれなかったのかもしれないが、自分にとっては絶対的に正義であった。

センスは10年。ということは後5年。ぼくはどんな表現をしていけることだろうか。そして、どこに辿り着くだろうか。本当に大きい仕事が出来るのは5年以上過ぎてからなのかもしれない。

5年後の追記。初心を思い出して、文章や表現と向き合っていきたいと思う。

もしこの記事が残っていたら、また5年後に追記したいと思う。

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