『スペインサッカーの神髄』に学ぶ


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書籍『スペインサッカーの神髄』を再読して考えたことを記す。

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ここのところスペインバスケのことを取りあげる機会が多かったが、スペインといえばサッカーの強国として知られている。強国どころではない。最強国として、語られている。

スペイン人選手はクオリティが高い。クオリティというのは「質」を意味するが、サッカーの専門用語としてはボールタッチやパスセンスの能力のことを指す。クオリティとパワーとスピードを全て最高レベルで持っている選手はいない。メッシにはパワーがないし、クリスティアーノ・ロナウドは、クオリティが突き抜けているわけではない。

日本代表で言うなら、遠藤や香川がクオリティが高い選手。柿谷なんかもまさにそう。逆に岡崎なんかはクオリティは高くない選手。

ともかく、スペインという国はボールタッチやパスセンスに優れたサッカー選手を産み出すことに世界一長けた国の一つだと言って間違いはないだろうと思う。ブラジル人もドリブルが上手いんじゃないか?と言われると確かにその通りなんだけど、ドリブルによる突破力とクオリティは若干ニュアンスが違うようだ。

「試合を組み立てていくパスを出すのに長けていること」という要素が含まれているように思う。バスケでいうなら、ジェイソン・キッドはクオリティが高いが、アイバーソンはそうでもない。KGなんかは、大きいのにクオリティが高い選手だし、レジーエバンスのクオリティは限りなく0に近い。

こんなイメージだが、用語を使う人によってもニュアンスが異なるので、よくわからない部分もある。

追記:書き終えた後に気付いたが、クオリティで重要な点は試合の組み立てに関われる、起点になれるということのような気もしてきた。そのためにはボールタッチやパスセンス、スペーシングなどが重要なのは言うまでもない。

さて、ぼくの怪しい用語解説は横に置いておくとしよう。クオリティが高い選手を産出し続けるスペインサッカー界。身長が高い選手は少なく、快足のウィングがいるわけでもない。シャビ、シャビ・アロンソ、セスク、イニエスタ、ビジャなどなど代表的な選手はみんな小さい(流石にGKとCBはある程度大きいが)。

しかしながら、今、スペインサッカーは世界最強の座に君臨している。

その要因は、スペインサッカーの育成力であり、そのうち90%はFCバルセロナの育成力といってもいいかもしれない。スペインサッカーの神髄 では、その秘密がカンテラにあるという考察がなされている。

カンテラとは「石切場」を意味するスペイン語で、クラブチームの育成組織のことを指す。以下の記事において、スペインのバスケットボールチーム「エストゥディアンテス」の育成組織についてまとめたが、こういったものをカンテラという(バスケの場合カンテラという用語を使うかどうかはちょっとわからないが)。

スペインバスケットボールの育成事情を聞いて考えたこと | はとのす

スペインサッカーの神髄 においては、FCバルセロナ、レアル・マドリード、アスレティック・ビルバオ、オサスナ、エスパニョール、セビージャの6チームのカンテラについて紹介されている。

どこか非効率的で貴族的な趣のあるレアル・マドリードや、バスク人のみしか参加できない特殊なチームの育成事情などいくつも見所があるのだが、やはり一番面白いのはバルサの育成組織だろう。バルサのカンテラ出身の選手を挙げ出すとキリがないので、生きる伝説「リオネル・メッシ」を育てて組織だと書いておこう。

バルサの育成に関する考え方は素晴らしいの一言。心から共感できるし、育成というのはこうあるべきなんだろうと感じた。この本を始めて手に取ったのは、2012年の10月頃で大学院での研究生活に限界を感じていたころだった。

大学院というのは研究機関であると同時に、国家の未来を担う研究者を育成する組織でもある。大学院生は学費を払い、研究者となるための育成機関に入っているという認識は間違っていないだろう。

しかしながら、大学院で行われているものは育成ではないと感じた。それよりは「仕事」というほうが近い。教育・育成の名を語り、若い労働力を集めて無償で使っているという要素がもしあるならば、大学院というのはなんとブラックな組織なのだろうか。

そう考えた切っ掛けとしてこの書籍があった。育成組織というのはこうあるべきなんだろうと強く感じた。難しい課題を与え、肉体的・精神的に負荷を与えるのは育成でも教育でもない。単なる選抜だし、いじめに近い行為だ。いじめ続ければ良い研究者ができるという考えは間違っている。

育成には哲学があるべきだし、練られたカリキュラムがあるべきだ。そして、バルサにはそれがあった。
いくつか本文から一部を引用しようと思う。

引用はじめ

 


 

【バルセロナのカンテラ哲学】

一番大切にしていることは「何歳の子供であっても1人の人間として接すること」

(アルベール・カペジャス)「大半の選手は、トップチームに上がることができません。しかし、彼らは貴重な成長期をFCバルセロナというクラブで過ごすわけです。その過程で1人の人間として立派に成長してくれる方が優先順位としては上にあります」

 

【メッシやイニエスタは育てられるのか】

(アルベール・カペジャス)「長年、我々は現場で数多くの選手を見てきていますがグアルディオラ、シャビ、メッシ、イニエスタ、のような選手をゼロから育てることは不可能です。彼らのような天才的な選手は生まれてくるもので、クラブとしては彼らのタレント(才能)が消えてしまわないように上手に見守っていくしかできません。
(中略)
重要なのは、そういうタレントを見つけ出すこと、そして彼らが壊れないように見守ることですよ」

筆者は(注:この書籍の著者、小澤一郎氏)日本の育成現場(高校サッカー)に数年立っていたことがある。僅か数年とはいえ日本の現場で感じたことは『良い選手はうまれてくるもの』とは言えない風潮と、『預かったからには良い選手に育てなければいけない』という指導者の焦燥感が漂っている点だ。

だから、日本の指導者というのは、熱心に指導についての勉強をするし、仕事とサッカーの指導で忙しい中、プライベートの時間を削ってでも指導に、勉強に精を出す。そのこと自体は何も悪いことではない(中略)。

『育てよう』、『教えよう』と気負う余り、オーバーコーチング(教えすぎ)になっているのではないかと思う。


 

引用ココマデ

どうだろうか。

もう一度尋ねたい。どうだろうか?

子供は、出来損ないの人間だから、教え込まないと使い物にならないと感じていないだろうか?子供の才能や可能性を感じ、それを信じ、壊れないように見つめ続ける、こういう態度で接したことがあるだろうか?

大学院という育成組織での体験

まず、自分自身の話をしよう。ぼくは、最近まで東京大学の博士課程の学生として研究生活を送っていた。

大学院では多くのことを教わった。時には乱暴な言葉の時もあったが、丁寧な教え方をしてもらったこともあった。研究方法や発想だけではなく、喋り方、英語、癖、趣味、生活態度など様々なものを指摘され修正された。

それは、教員の側からすると愛情であり、熱心な教育だったのだろうと思う。

しかし、その中で、研究するモチベーションは完全にぶち壊れてしまった。いつの間にか教員に修正されないような発想をしようとしている自分がいることに気付いた。

教員が怖かったし、わずらわしかった。万一逆らうと、研究者のポストに就けなくなってしまうので、Noと言う時は辞める時しかなかった。これは部活にいる子供と似た状況なのではないだろうか。

感謝するべき部分もあるにはあるが、そりゃ学費を払ってるのだからそのくらいはやってくれないと困ると言いたい(学費どころか人生の大事な時間を削っているわけだし)。

教員のサイドは、あれだけ目に掛けて教えてやったのに、心が折れた情けないやつだとか、恩知らずな奴だとか考えているのかもしれない。この間もさっさと休学&退学手続きを取れという趣旨のメールが来て、2週間ばかりうんざりした気持ちで過ごす羽目になった(言い過ぎたと思ったのか、訂正のメールが来たけど返事はしていない。関わると心を病んでしまう。)

熱心に修正してくれるおかげで、学生の中には自分の方向性を見失い、自信を失い、モチベーションがなくなり、いつしか夢を忘れる。期限内に課題をこなし、その際に手ひどいことを言われないようにするために注力するようになる。

ぼくは考えた。
それでは、クオリティの高い選手は作れない。クオリティの高いサッカー選手には、パスセンスが必要だ。混沌としたフィールドの状況を読み解き、未来を引き開くための閃きが必要だ。これは誰かが教えるものではない。

自分には才能があったと信じていた。しかし、閃きやアイディアは萌芽の段階で潰されていく。夢に満ちあふれた研究プランは、地道で無難で努力量が必要なものに塗り替えられていく。

ぼくの能力を評価しない人はいなかったが、感性を理解してくれる人は周囲に殆どいなかった。本当につらい時間だった。

ぼくが辛い時間を過ごし、教員は多大な労力をかけたにも関わらず育成に失敗した上に感謝もされない。日本という国は、世界に通じる研究者の卵を1人失った(ということにしておこう)。誰も得をしなかった。

どん詰まりに追い込まれ、何度歯を食いしばって再起しようと思っても、どうしても身体が動かなくなってしまった。そんな中、桜宮高校のキャプテンが自殺したというニュースを見た。

日本の育成に哲学はあるのか

育てるというのはどういうことなんだ。大人達に見守られながらバルサで才能を磨き続ける子供がいる一方で、日本の子供は毎日30発のビンタをされて自ら命を絶った。一体日本はどうなっているんだ。

結論は出ていない。

しかし、変えなければならないだろう。

ぼくにも1人の子供がいて、将来的にはスポーツをやってほしいとは思っている。だから、息子が大きくなる前にスポーツ界の文化を変える。子供に負荷をかけ、ネガティブな言葉をかけ、劣等感を植え付け、実力の低いものは使い捨てにするような文化なら、全力で叩き壊さないといけない。

子供の柔らかい頭を殴るようなものは指導ではないし、それならば指導者なんていないほうが余程いい。

日本人の指導者は真面目なんだろう。その真面目な頭で学ぶべきは、練習メニューではない。コーディネーションでもないし、戦術でもない。学ぶべきは、育成哲学とでもいうべきものだろう。

大学の教員は、スポーツで言うなら名選手で、研究の実績を自ら積み上げた人だけが得ることが出来るポストだ。しかし、名選手は名コーチとは限らない。それどころか、コーチとなるためのトレーニングも受けていないし、勉強をしているとも思えない。

自分の経験と思いつきだけでやっているのが実情だ。そのため、教員によって当たり外れが大きく、どの研究室を選ぶかによって天国か地獄かが大きく分かれる(ちなみにうちは、どちらかというと天国よりだったのだけど、業界自体がブラックなのでぼくにとっては地獄だった)。

育成哲学を学ぶべきだ。1人でやってはいけない。多くの指導者、様々な分野の指導者と交わり意見を交換するべきだ。

両手一杯に輝く未来を抱えている子供という存在と関わるということはどういうことなのか。どれだけ重要で責任が重いことなのか。「教える」よりも「見守る」ことのほうが大事なのではないか。

子供の上に立つよりも、子供と対等な目線に立つほうが大事であり難しい。

また、子供と対等であるよりも、子供の下に立つほうがさらに難しい。

ぼく個人としては、子供の下に立つというのが非常に重要なことだと思っている。バルサのコーチ達は、メッシやイニエスタには自分が遠く及ばないことをよく理解した上で見守っている。これこそが大切なことだと思う。

先の大学院の話でいえば、大学教授よりも才能がある若者なんて山ほどいるわけだから。

スペインサッカーの神髄というこの書籍。日本で、教育や育成に関わるすべての人にお勧めできる本。というよりも読まなければいけない本の一つだと考えている。


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