フットボリスタ編集長木村浩嗣氏の話を聞いてきた 月刊化編


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フットボリスタ編集長木村浩嗣の座談会のがあると聞いて飛びついた。これは行かねばならない。何故なら、木村浩嗣はライターに成り立てのぼくの心をぽっきり折った人だからだ。

体調を崩していたせいですっかり更新が遅れてしまったが、どうしても残しておきたいので書くことにした。

新しいビットマップ イメージ

ロケーション

会場となったのは、裏原宿と呼ばれているエリアにあるカフェ&バー『mf』。Futbol & Cafeと題したイベントを不定期で行っているようだ。要チェック!!


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いきなり脱線するけど、結構食べ物が美味しそう。オレンジジュースしか飲まなかったので詳細は不明だが、スペインのビールなども各種揃えてあるようだった。明治神宮で野鳥探しをした後になら寄れるかもしれない!

footballistaにも広告を掲載している。

130813

MF エムエフ – 明治神宮前/カフェ [食べログ]

木村浩嗣に会わなければいけなかった理由

この方はフットボリスタの編集長なのだが、非常に前に出てくるタイプの編集者と言える。巻頭に載っている連載「フットボリスタ主義」は、理知的で、刺激的で、時に挑戦的すぎて「これ書いて大丈夫?」と心配になってしまうほどだ。

特に印象に残っているのが「納得していないのに握手をするな」という言葉。前職を辞める際に、対立していた上司から握手を求められたが、拒否した結果、激怒されたというエピソードに付け加えられた一言だ。

喧嘩しながらも我を通し、不器用に生きてきた自分のやり方がすべて肯定してもらったような気分になった。

木村浩嗣は、スポーツ関係で最も憧れる書き手の1人だったので、どうしても会ってみたかった。

また、木村浩嗣はぼくの心を折った人物でもあった。大学院を辞めることを決め、一時はサッカー系のライターになることも考えたことがあった。世界各国に取材に行く、楽しそうではないか。

しかし、木村浩嗣という人はスペインに住んで、スペインサッカーについて取材していることを知った――

実際に現地に住んでいれば、サッカー以外にもスポーツ文化の様々な側面が見えてくるだろう。人々の考え方、行動がサッカーにどういった影響を与えているかも見えてくるだろう。

勝てない。ぼくには海外に居住するまでの覚悟はない。それどころか、サッカーのために生まれ育った土地を離れる覚悟もなかった。気合いの入り方が違う。生半可な覚悟では入ってはいけない世界だと感じた。サッカージャーナリストの狂気を感じさせられた。

こういった背景から木村浩嗣という人にはただならぬ興味を持っていたのだが、何せスペイン在住なので日本に戻ってきたタイミングを見て会いに行かないと次がいつになるかわからない。

体調が悪く朦朧としていたのだが、他の仕事はすべて投げ出して講演を聴きに行くことにした。

フットボリスタの月刊化について

ご本人が当日の様子を巻頭言にも書いているので引用する。

「7年間雑誌を作って来て、日本のサッカーファンのこんなところが変わったな、というのはありますか?」

(中略)

「はっきり変わったことがあります。みんなわかっちゃったんです。3バックも、ゾーンディフェンスも、”偽CF”も一通りわかっちゃった。で、その先に行かなくなっちゃった。」

「サッカーにはセオリーがあります。が、セオリーを守っているだけでは勝てない。壊すことで意外性が生まれて勝てる」

「セオリーを疑い、もっと深く突っ込む必要が出てきた。それをするのに週刊では限界があるんです」

footballista 8/7・8/14号 p.3

これは、現場でも聞いた話だったが深く共感した。サッカーの知識はみんなある程度持っているし、あたかも監督になったかのように語っている。時には指揮官に対してネット上で辛辣な批評をすることも多い。

そういった人達の根拠となっているのは、「セオリー通り戦うべき」という考え方なのではないだろうか。

自分の中では、こういうサッカーをするべきだというセオリーがあって、それに反するものを脊髄反射で批判しているだけなんだろうと思う。

こういった人は「サッカーはこういうものだ」と既に悟ってしまっている。試合を観る際に新鮮な驚きや喜びはもう失われているのではないだろうか。変に知識があるから、知識に頼った観戦をし批評をする。

でも、そこで止まってはいけなかった。知識をつけて、すべてわかったような気分になるべきではなかったのだ。まだ先がある。

というのは、サッカーというのはセオリーで通しても勝てないスポーツなのだそうだ。サッカーゲームでは通用しても、現実のゲームでは相手に読まれてしまえば通用しなくなってしまうからだ。

そのため、敢えてセオリーを崩していく必要がある。普通なら、いつもなら、手堅く行くならこうするというのは重々承知で、敢えて崩すことで相手チームのディフェンスに綻びを繕うとする。

セオリーを崩す面白さというのは、基本を抑えた上での応用問題といえるかもしれない。

思い出すのは、CL決勝リーグでのマンチェスターユナイテッドvsレアルマドリードの2ndLegだ。ファーガソンはウェイン・ルーニーをベンチに置いた。

記者達も、ファンも、モウリーニョも誰も予想していなかっただろう。大一番でトッププレイヤーを敢えてベンチに置く。サッカーゲームでは考えられない選択だろう。

ルーニーはベンチに座り、オールドトラッドフォードのアナウンスはかつて所属した英雄クリスティーアーノ・ロナウドを賞賛した。

「かつてこの地に栄光をもたらせた偉大なるフォワードが帰ってきました。皆さん、大きな拍手を!」(どこで読んだか忘れたので正確に引用できず。記憶から再生。)

それを聞いて、ロナウドはかつてないほど緊張したという。ブーイングを送るよりもはるかに高度な駆け引きだと感じた。

このファーガソンの揺さぶりの掛け具合をみて、サッカーとは何と面白いスポーツだろうかとしみじみ感じた。その時のことを思い出した。

ファーガソンがルーニーをベンチに置いた理由は、推測する以外方法がない。しかし、1つには、策師モウリーニョの想定してきたシナリオを崩すという目的があったのではないかと思う。

なんだろう。なんだかわからないけど、なんかすげーー!!!

そのとき感じた気持ちを大事にしないといけない。そして、「ルーニーを外すなんてありえない。」と激怒することなく、監督の意図を考えたり、ルーニーを外したことによる効果を考えたりするのが面白い観戦の仕方なんだろうと思う。

月刊誌に変わる最大のメリットは、例えば「ルーニーを外した理由」について、数ページに渡る特集ができることだろう。フットボリスタの紙面には「サッカーには絶対的な解釈などない」という哲学が貫かれていると感じている。

もし、この「ルーニー事件」が特集されていたら、世界各国のジャーナリストによる解釈が並べられ、その後に喧々とした議論が繰り広げられるに違いない。

そりゃ読みたいよ。簡単なマッチレポートに留まらずに、徹底的に解釈した特集なんて読みたいに決まっている。

書いていると「物書きとしてはどんどん長いものが書きたくなってくる」ものだと木村浩嗣氏は言っていた。その通り。短くてわかりやすい文章のほうが価値が高いという考え方はあるかもしれないが、本当に言いたいことは長く書かないと伝えることはできない。

文章の長さは、情熱の量なのだ。月刊化した後、どれだけ熱い特集が読めるかと考えると今から楽しみでならない。


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