世界を切り開くのは、最後の最後で踏ん張ること。手を伸ばせること。


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才能。
そんなものはないと、努力派の人は否定する。
しかし、才能は紛れもなく存在している。

全ての人間は努力次第で同じ能力を持てると信じている人も世の中にはいて、そういう人とは前提が違いすぎて議論が決着しない。

その人は、全ての人間はイチローと同じだけの成績が残せるポテンシャルがあると言う。ぼくは、あんなに足が速くて、反射速度に優れていて、肩が良くて、メンタルが図太い人間になれる人は限定的だと主張する。

これは紛れもない実話で、議論の相手は裁判官をしていると風の噂に聞いた。並みのロジックで屈してくれない。


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生物には個体差があり、個体によって得意不得意がある。これは、人間でもアワビでも一緒だ。アワビだって、殻長0.5 mmくらいの浮遊幼生をじっくり観察していると結構な個体差があったものだ。

個体差はとても大事。個体差があるからこそ、大きな環境変化があっても種としては生き残れる可能性が高まるのだ。

得意不得意は個体によってあるものだし、その中で著しく飛び抜けているもので、かつ、世の中の人が高く評価するものを才能と呼ぶ。

才能というものはあるのだ。

しかし、才能を持つ人に「才能あっていいですね。」と言うと、「いやいや、これは努力の賜物です。ぼくには才能なんかありません。」と言われることも多い。

かくいうぼくも、物書きになる前から「文才があっていいねぇ」なんてお褒めの言葉をもらったこともあった。

そう言われても嬉しさなどなかった。ぼくの中には自分の言いたいことがうまく伝えきれないもどかしさだけがあったからだ。

文才というのは何だろうかという議論は置いておこう。ぼくに文才があるかどうかについては、物書きとして仕事を始めた以上、ある一定以上はあるだろうが、同じ職能を持つ人の中でどのレベルにあるのかはわからない。

そして、そんなことはどうでもいい。

勝負を決めるのは文才ではないからだ。

ある程度の適性がないと書き始めようとは思わないだろうし、恐らく文章の中に「何か光るもの」を埋め込むことも出来ないだろう。そういう意味では、一定以上の文才というものは必要だ。

それはスタートラインに立てることと、速く走ることが出来ることの二つを保証してくれる。ああこいつは、速いんだと感じさせることまでは才能だけでも出来るはずだ。

しかし、才能があるからといって結果が出せるとは限らない。
走り始めてしっかりとゴールすること。レースで1位になること。歴史に残るような記録を残すこと。

こういった大成功を収めるのに必要なのは才能ではない。

物事を突き詰めて行こうとする時、より上の段階へと移行とする時、苦しくて苦しくて苦しくてどうしようもない状態に陥ることがある。

ぼくは人生で、何度かこの状態に陥ったことがある。そして、今もその時である。

『サポーターをめぐる冒険』とは違うやり方をしなければいかないのだが…… 一言で言うと実力不足であったのだろう。やってもやってもうまくいかなかった。こんなに苦しむとは思わなかった。

通常は第一作でこういった苦しみを味わうものらしい。ぼくの『サポーターをめぐる冒険』は、第一作というよりも第零作というような位置づけなのかもしれないな。

ともかく、勝負を決めるのは才能ではない。本当に苦しいときでも、文章を書くということに執着できるかどうか、目の前に地獄があるのにアクセルを踏み込めるかどうか。

創作をしていると、美しい閃きが得られることがある。しかし、その美しさを文章という形に落とし込むのは決して簡単ではない。もがき苦しみながら、試行錯誤を続ける必要がある。閃くのが才能で、閃きを形にするのは努力なのだ。

ぼくの好きな小説では、後者も才能と位置づけてはいたし、確かにそこにもセンスは必要だろうなとは思うものの、ぼくの場合は「努力」と感じる部分が大きい。

ここでの努力量が小さいと、どうにも薄っぺらな作品になってしまうように思える。最後の最後で、どれだけあがけるか。血反吐を吐きながら手を伸ばせるか。

それをしてでも書きたいから、文章が好きだということになるのだろう。

本当はこういうBlogの文章も何度も何度も叩いて、人にも見てもらいながらより良いものに練り上げていくべきなのかもしれない。しかし、ぼくにはもっと優先してやるべきことがあるのだ。

今週、来週が山場!! いざ、尋常に!! 勝負!!!


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