東大に11年在籍した後、タクシードライバーになりました

はとのす 

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略歴 生誕から中学卒業まで

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生誕

・1981年、東京の東南端に生まれ、東南端に育つ。

父方は祖父の代に茨城から上京。祖父は、「開業資金をすべて飲み尽くした」「車を自分で組み立てて売っていた」などの伝説を持つ。

・母方は、江戸時代から日本橋でかつお節問屋を営んでいたが、関東大震災で倒産してしまったらしい。
・戦後、印刷業を営む。

要するに江戸っ子

とはいっても……
生まれた場所は本郷三丁目だけど、育った家は江戸川区。
両国橋よりも東は江戸の街ではなかったので、当時の定義では江戸っ子ではないのかもしれない。

などと江戸っ子は細かいことに非常にうるさい。

江戸という街は、100万人以上の人口を数え、世界で屈指の大都市であった。
どこの土地に生まれて、何に親しんできたかを、大事にしていたのかもしれない。

「男はつらいよ」の主題歌も寅さんがこう呟くところから始まる。

(私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、性は車、名は寅次郎と発します。)

江戸っ子といえば寅さんというイメージはあるのかもしれないが、寅さんという存在は殆どファンタジー。作品としては面白いけど、シンパシーは感じない。そもそも、ぼくのいる東南のあたりと、寅さんが暮らした北東のあたりは、ほとんど交流がない(電車で1時間以上かかるし、乗り換えも複雑)。

江戸っ子は五月の鯉の吹き流し。
短気で見栄っ張りで、口は悪いけどはらわたはなし(悪意はなし)。

「うちのお袋は、殺そうと思ってもちっとも死にゃしねぇんだよ」などというブラックなことを言いながら、祖母を献身的に介護していた叔父の所行はまさしく江戸っ子だった。

自分が厳密な意味で江戸っ子であるかはどうでもいい話だし、人に自慢しようとも思わない。しかし、東京で生まれ育ったことはぼくの誇りだ。

幼年期

活発な悪戯っ子だったらしい。
クレヨンしんちゃんそのものだったと、両親は述懐している。

海に行けばその辺のカップルに砂を投げて回ったり、近所で「俺は仮面ライダー!!変身!!シャイダー!!」などと叫びながら徘徊したり……
さぞ大変だったことだろう。

将来の夢は「学者さん」「工事のおじさん」だったらしい。前者は「知」の象徴であり、後者は「力」の象徴であったのだろう。

小学時代

【ゲーム】
ファミコンの全盛期。
初期にやったゲームは、スーパーマリオ、燃えろプロ野球、トランスフォーマー、聖闘志星矢、ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ…、第二次スーパーロボット大戦など。

ドラクエ的な世界への憧れは、心に染みついている。
魔王を倒し、世界を救うために立ち上がり、あらゆる苦難を乗り越えて前進むのだ!!
ぼくらの世代は「ドラクエ世代」であり「勇者様世代」でもある。

救世主として人々に歓迎されるような理想の未来を描き、決してそうはならない現状に失望し、生きる気力を失っていく。ぼくらは、何にも選ばれていないし、伝説の勇者の血も引いていない。

今思うと、家庭内暴力、いじめ、引きこもり、少年犯罪などの問題の奥底には「勇者にはなれない絶望」が隠れているような気がする(一方で、最初から勇者になんか興味がなくて、俺はサポートの僧侶タイプさなんて気取っている奴もいたけど、そういうタイプのほうが世渡りがうまい傾向にあったような印象)。

スーパーロボット大戦は、一番はまったゲームかもしれない。ガンダム、マジンガーZ、ゲッターロボの混成軍が「悪の組織」と戦う話。基本的にはガンダムのストーリーに即している。ぼくはこのゲームを切っ掛けにガンダムを知った。非常に難易度が高く、小学生のぼくを苦しめた。最後の最後でνガンダムが出現して、圧倒的な強さでラスボスを屠るという最高のカタルシスと、ラスボスよりもはるかに強いネオグランゾンの存在が不気味に印象付けられた。

「落ちろ、落ちろ、落ちろぉ!!!」

【読書】

一番印象を受けた本は、「ロビンソン・クルソー」(デフォー)。ブラジル沖あたりの無人島に漂流したイギリス人男性が20年以上サバイバルする話。ボーイスカウトに入っていたこともあって、この手の話は大好きだった。衣食住をどうやって確保するかについて延々と考えるお話。最終的には非常に美味しそうな状態になる。

どんな悪いことでもその中に含まれている良いことを除外して考えてはならない。
またより悪いこともそれに伴っていることをも忘れてはいけないのだ。
『ロビンソークルーソー』より

ジュール・ヴェルヌは伝説。といっても「地底旅行」と「海底2万海里」しか読んでいないが。「冒険」こそ、人生における至上のテーマ。

意志を持った人間であれば、心臓が動いている限り、肉が動いている限り、絶望に陥ることなどわしは認めん!
リーデンブロック教授 地球の中心にて 最後の食料を前に 『地底旅行』

江戸川乱歩は好きだったけど、不遜なことにパターンが読めちゃったから、もっと面白いものを自分で書くとか言い出した。
というわけで、卒業文集に書いた将来の夢は「小説家」になること。

その後、何か書いてみたいという願望は強くあったものの、「フィクション世界を描く」ことがどうしても出来ずに挫折を続けた。作品として残っているのは自由研究で書いた冒険小説のみ。

6年生の時にJリーグ開幕。祖父母の部屋で偶然見ていたNHKの特集が切っ掛けで鹿島アントラーズを応援し始める。当時はブームだったので、みんな自分の好きなチームを決めて応援していた。周囲で多かったのは、浦和レッズ、ヴェルディ川崎、ジェフ市原あたり。Jリーグの選手はほぼ全員把握していたし、Jリーグチップスを毎日食べ漁っていた。

中学時代

地元の公立中学へ。
Jリーグブームに煽られサッカー部に入るがすぐに幽霊部員化。
変な練習とシゴきとイジメの中間の指導のおかげでサッカーが嫌いになり、以後ずっと続く。

Jリーグもいつの間にか遠ざかってしまった。最後にJリーグに親しんだ記憶は、エキサイトステージ95というゲーム。鹿島アントラーズにはジョルジーニョとレオナルドという反則級のプレイヤーがいた。

ゲーム三昧、ゲームセンター通い。大して上手くなかったけど、ストリートファイター3の大会で準優勝したのは良い思い出。

「ぼくらの」シリーズを読み、ブルーハーツのパンクロック精神に染まり、「ずるいオトナ」は全員嫌い、勉強も大嫌い。

成績は平均するとオール3くらい。普通の公立中学でオール3というのは決して優れた成績ではない。

何1つ努力することなく、世界に対する不満ばかりを覚えていた。
「No No No No No No No No No」と叫んでいた。

ノストラダムスが世界の終焉を予言したのは、ぼくが18歳の時だ。下らない説だが、子供であったぼくらにはそれなりに影響を与えていたように思う。

「一九九九の年、七の月 空から恐怖の大王が降ってくるだろう。」

この言葉は、テレビで何度も何度も特集され、少年向けの読み物にも顔を出した。18歳で世界が終わってしまうという恐ろしさはなかった。もちろん、信じてはいなかった。しかし、繰り返し繰り返しすり込まれる中で、ある種の絶望感は着実に植え付けられていった。

そんな中、阪神・淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こったのは中1の時であった。ああ、世界は終わるのかと感じた。この2つの出来事は、中学生の自分には非常に衝撃的であり、学業から逃避するには絶好の口実となった。

かといって、本気でグレて犯罪に走るほどではなかった。人生に対する諦めと、次々と湧き上がってくる「大人と社会」に対する怒り。そんな中で、「Akira」や「エヴァンゲリオン」と出会ったのは必然であった。激情する「流浪人剣心」、悪者をボコボコにする「GTO鬼塚」、暴走する「エヴァンゲリオン初号機」。そして、アキラの爆発。

ォォォ……

ォォォォォォォ……

オオオオオ……オオオオ……

オオオオオオオオオオオオオ

オ オ オ オ オ オ オ オ

オオオオオオオオオオオオオ

 

オ オ オ オ オ オ オ

ドカーン!!

ぼくらは全てを吹き飛ばしてくれるような力を求め、と同時に、力が手に入らないことに失望した。もし魔王が現れたら命を賭してでも戦うのに、という「空回りした正義感」だけを抱えて、不毛に生きていた。そして、ぼくらの代わりに怒りを爆発させてくれるものを強く支持したのだ。

エヴァンゲリオンのシンジ君は、「逃げちゃダメだ!」と叫んでエヴァに乗り込んだ。しかし、「勇者様」にはなれなかった。ポジティブに世の中に向かい合おうとしているようにみえたアスカも精神崩壊してしまった。

この時代のぼくには何があったのだろうか。
部活にも行かず、友人はいたがちゃんとした人間関係を築けていたとも言えない(最も、子供の時の友人なんてのはそんなものだ。だからこそ良いのだが)。

可能ならばやり直したい時代の1つではあるが、この時代に何も出来なかったからこそ、後になって爆発することが出来たのかもしれない。

中学生の時にスポーツ万能で、女性にももてて、チョイ悪で不良な付き合いもしていて、勉強も出来てという人はいた。しかし、もしぼくがこの時代に「絶世」を味わっていたら、いつまでも古き良き時代を懐かしんでいたかもしれない。

良い思い出として覚えているのは成長期の布団。ヌクヌクと温かく、延々と眠ることが出来た。半年間で15 cmくらい身長が伸びた。栄養学の知識があったらもう少し行けたかもしれない。そこはちょっと後悔(後に始めたバスケでは身長が非常に重要なファクターだった)。

公立の中学で真ん中くらいという成績のぼくは、当時偏差値51で倍率1.1倍であった安田学園高校に合格した(他も受けたけど、見事に落ちた)。

続く

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