東大に11年在籍した後、タクシードライバーになりました

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文章とは人生の織物である。

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ブロガー向けのマニュアル本を読んでみると、「時にはSNSで一般人とも交流しましょう」というようなニュアンスのことが書いてある。

一般人とまでは言っていなかったかもしれないが、その表現には増長が感じられる。傲慢ともいえる。物書きは、「書いてやっている」のではない、「共感させてやっている」のでもない。

人様に共感して欲しいから物書きをしているのであって、共感を得たならば、「共感して頂いた」と考えるべきなのだ。ぼくは、寂しがり屋で表現下手というパーソナリティがあり、口で上手く伝えられないからこそ文章表現を発達させることになった。

ぼくのことを口が達者だと言う人もいるし、社交性が高いと言う人もいるが、それはある種の火事場のクソ力的なものであって、常に発揮できるものではないのだ。

ところで文章のことを英語で言うと「テキスト」という。textの語源は織ること。文章とは織物のことなのだ。

文章を大量に生産することが求められる世の中だ。
ぼくもライター業をしていたときは、一日に酷いときでは4万字も書いた。
当然クオリティが低いが、収入を得るためには大量生産せざるをえなかったのだ。

一方で、ちゃんとした心のこもった文章は大量生産なんてとても出来ないのだ。
機械でペペっと吐き出したようなものでは、どうしても人の心に響かない。

「あの人に伝えたい。でもこのままじゃ伝わらないかもしれない。もう一回考え直そう」

そういった心の張りがあって初めて良い文章を練り上げることができる。


ところで、サッカー関係の記事がヒットしたことで良かったことがある。
それは将来的に仕事に繋がりそうとか、下手の横好きで愛しているサッカーのことが出来そうだとか、そういうことではなくて、SNSなどを通じて理解し合える仲間が増えたことが本当に嬉しいことだ。

読者というのは、お客様ではないのだ。
もちろん、将来的に本を出した時に、それを買ってくれたとしたら、販売者と購入者という立場になるという意味では、読者はお客様といえる。

しかし、ぼくにとってはちょっと違う。
読者は、潜在的に作品を作っている。つまり、ただ読んでいるだけではなくて、創作に関わっているともいえる。

ぼくのやり方の場合は特にそうだ。
人里離れた山奥で、誰とも交流を持たずに文章を書いているわけではないのだ。

今Jリーグについて書いているのだが、Jリーグについて誰かがぼくに伝えたことは、必ず作品の一部になる。
そのまま表現されるわけではないかもしれないが、必ずそこに含まれている。

ぼくにとってテキストとは、自分という縦糸に対して、今まで出会った人という横糸を通していく作業なのだ。
自分だけでは成立しないし、他者だけでも成立しない。

確固たる自分がいて、そこに偶然であって影響を与えてくれる他者がいる。

つまり、それが人生というものだ。文章を書く、織り込んでいくという作業は、人生を生きることに他ならない。

今、ぼくが文章を書けるというのは、これまで32年間生きて来れたということの証明なのだ。

ぼくの人生に影響を与えてくれる人の1人として、Twitterで出会った鹿島アントラーズファンの方がいる。
試合の度に、「ヒゲの息子」に送ってもらってカシマスタジアムに行くという彼女は、織物を作る職人さんでもあるそうだ。

織物を作ることと、文章を作ることはやっぱりとても似ているようだ。
全く違う作業のようにも思えるのだが、妙に共感する部分が多い。

例えば先日頂いた言葉を引用させて頂くと……

糸を紡ぐのに60時間!!

織物というと、ペペっと機械であっという間に作ってしまうもののように思えてしまうし、手作業であってももう少し早くできるものかと思ったら、ここまで根気のいる作業だったとは。驚いたし、強く刺激を受けた。

時短とか、効率化とか、そういうことばかり叫ばれる世の中だ。いや、それは悪いことではない。効率化しないと大切なことをする時間がなくなってしまう。

しかし、本当に大切なことに対してはどれだけ時間を使っても惜しくない。

それは、ぼくにとっては文章を書くことだし、すなわちもっと善く生きることだ。
先ほど紹介した彼女にとっては、家族と過ごしつつ織物を作ることなのだろう。

今日も良い文章ができるように、一生懸命頑張ろう。
出来ることはそれしかないし、やりたいこともそれしかないのだ。

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