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サッカー論

芸術としてのサッカー論の著者、河内一馬の退場を望む理由。

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芸術とサッカー論の語り部 河内一馬とは何者か

河内一馬。

アルゼンチンでサッカー指導者としての勉強をする26歳の若者。世界がこの男に気づいたのは、忘れもしないハリルホジッチ氏の解任騒動という狂乱の最中であった。

ぼくが、こんな記事を書いて、33万の大バズを記録している時――。

ハリルホジッチ解任でサッカークラスタが発狂している理由|中村慎太郎|note

河内一馬氏は、こんな記事を書いた。

日本にナーゲルスマンが居ない理由|河内一馬|note

非常に良い記事で驚いた。ハリルホジッチ解任のどさくさに紛れて、河内一馬氏は一気に認知度をあげた。

ただし、この記事の「スキ」の数は83。ぼくが書いた発狂記事は523である。自慢がしたいわけではない。その後の戦略が大違いであることを言いたいのだ。

ぼくの記事は、偶然書いたものが時代に弄ばれたに過ぎない。爆発力はあったが、そこから何かにつなげていくビジョンはなかった。結果として、ニコ生の実況解説であり、役どころとしてはメインMCという大役を頂くことになり、キャリアとしては大きな飛躍があった。

しかし、あの記事はあくまでも単発であって、戦略性があったわけでもない。五百蔵さんのように戦術分析の専門家というわけでもないし、関連するサッカー論を次々と更新していったわけでもない。

ぼくにはfootballistaから執筆依頼が来ることはない。

何故なら専門がないからだ。非専門家としての言論、あるいは、エンタメや学術としてのサッカーの捉え方、さらに言うならば学校の先生的な説明の技術などの総合力はあったのだろう。それによって実況解説の仕事をすることは出来た。

しかし、独力で一つのテーマを深め、展開していくことは出来なかった。ぼくはサッカーについてはやはり素人なのだ。footballistaは人生を変える手助けをしてくれた大切なメディアだし、中の人とも良好な関係だと思うのだが、仕事が来るようなレベルではないのである。

もちろん、そのあたりは自分の問題点としてずっと認識しているし、浅野賀一さんと面白いお話をさせて頂いたこともあるので、いつかぼくの名前がfootballistaに輝く日が来るかもしれない。それは人生の目的の一つなので、大事にとっておこうと思う。

さておき、河内一馬氏は紛れもなく戦略性を持って、記事を更新していった。

ナーゲルスマンの記事を置きに行った後、次々と骨太の記事を更新していったのだ。

外国人を日本に招くことがサッカー界の発展に繋がらないと断言できる「8」の根拠【前編】

強いからかっこいいのか、かっこいいから強いのか——。 "弱い"と"ダサい"の因果関係

若さは"武器"となり、若さは"邪魔"をする

Jリーグが必ずハマる"罠"——。 スポンサーの獲得は「正義」か「悪」か

などなど。
上から評価するような言い方になってしまって恐縮だが、どれもこれも非常に面白い!!

本を読んで独学をしている26歳の若者なので、その筋の研究者のような厳密な論述にはなっていないことも正直言ってある。そして、厳密な論述をする研究者の文章は面白くない。その学問の流れからはみ出ないように、自由な発送を禁じられているからだ。

河内一馬氏の文章は、着眼点や発想がすばらしく、またしっかりと論証されている上、ビジュアル的にも工夫されていて非常に読みやすい。

確かに、宗教の記事など、論旨に賛成できないものもあるし、元研究者であり現在は文筆業をするものとして、「科学」や「芸術」についての基礎的な理解には相違点もある。しかし、そういう細かいことはどうでもいいのだ。

河内一馬氏が、様々な知識から刺激を受けて、サッカーとは何たるやという考察を進めていくところが非常に面白いのだ。そこには知的な閃きがあり、優れた構成があり、戦略的な道筋がある。

読み進めていくと、河内一馬の描くサッカーの本質が茫洋と見えてくるところが非常にロマンチックなのである。今は粗もあるかもしれない。しかし、こういった濃厚な施策を続けるものが10年を過ごした後にどうなるだろうか。

心より期待していたし、直接会って話してみたいとずっと思っていた。

こういった優れたアウトプットを続けていった成果が、noteのフォロワー数にあらわれていて、中村が500人程度なのに対して、河内一馬は約13000人である。これはnote全体でも100位程度には入る大変素晴らしい数字である。

河内一馬の問いかける議論の魅力もあるのだが、何よりも河内一馬という人物についての興味がフォロワーを増やすことに作用したのだろう。

ちなみに、負け犬の遠吠えをしておくと、ぼくのフォロワーが増えない理由は、noteにおいて挑戦をしていなかったからだ。それ以上に、十分に更新をしていなかった。この先どの程度noteで勝負をしていくかはわからないし、この記事もブログに書くことにしたため、今後追い抜けるかどうかはわからないのだが、同時期にnote記事が注目された縁もあるので、今後も一つの目標として意識していきたい。

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河内一馬との邂逅

最初にコンタクトを取った時はTwitterだっただろうか。noteのコンテンツが非常に素晴らしく称賛した記憶がある。

次が2018年の秋口で、宇都宮徹壱ウェッブマガジンWMの企画で、skypeを通じてだが話すことが出来た。その時の記事がこちら。

今こそ語ろう「正しいnoteの使い方」石井和裕✕中村慎太郎✕河内一馬<2/2> : 宇都宮徹壱ウェブマガジン

その時、年末に帰国すること、それに併せてイベントを開催することなどが決まった。

 
 

そして、来る12月19日……。

12月19日 河内一馬と考える『芸術としてのサッカー論』に登壇します!!|中村慎太郎|note

高円寺のスポーツ居酒屋Kiten!にて。

イベントの1部は、河内一馬氏のキャリアや今後の展望について。2部はフリートーク寄りの内容であった。

フリートークといっても、自分が主となるイベントではないので、何をどう話すかは結構気を使うものだ。主はゲストの河内一馬氏であり、ホストは宇都宮徹壱さん。そして、サポーターの大先輩である石井和裕さんも控えている。ぼくは4番手なのである。

こうなった場合シュートを決める必要はない。観客が興奮するようなシチュエーションを作るだけで、シュートはすべて河内氏に撃ってもらえばいい。それが良いイベントの形だ。

とはいっても、聞きたいことは山程あったので、色々と聞いてみた。

その中でも気になっていたのは「芸術」についてだ。

河内氏は「科学」というワードも使うが、主としているのは「芸術」という概念によるアプローチである。そして、河内氏の論述は、時にこの「芸術」という用語の解釈によって議論の材料となる。

そして、このあたりが「河内一馬よ、退場せよ!」という今回の論旨に繋がっていく。

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芸術とは何なのか

そもそも芸術とは何のなのかという問いについては、個別具体的な話でいうと、芸術家の数だけ解釈が異なるというのが正解だろう。

もちろん、芸術とは何たるやという問いを突き詰めていく学問もある。それが美学芸術学という分野だ。芸術哲学という分野があるかどうかは知らないが、人類が積み重ねてきた芸術という試みを俯瞰的に見ながら、分析していく。

大学では美学藝術学という難しいほうの藝術を使っていたのだが、そのあたりのさじ加減については詳しくない。さておき、藝術の解釈というのは難しいものなのだということだけがわかれば十分だ。

そして、河内一馬が芸術という概念をどう捉えているのか、また、それによってサッカーという競技にどんな変革をもたらすのかというのが、今回のイベントの焦点だった。

ぼくにとっての芸術の解釈を述べよう。芸術には、高度で専門的なものも含まれるが、そもそもは人間の誰しもが持つ原初的な表現だと思っている。

心で感じたことを、音、絵、文章などの他人が見える形に置き換えていく試みが芸術だ。

ただし、単に驚いて叫ばされるということ自体は芸術ではない。わっと驚かしておいて、これが芸術だと言い張るのには無理がある。何か一工夫が必要だ。例えばこういう装置はどうだろうか。

「暗い部屋に入ると、突然ピカっと光る。驚いて声が出ると、その声にエコーがかかって天井へと吸い込まれていく。天井を見上げると、「あなたは生きている」と書かれている」

こういうものを作れば、現代芸術であると言い張ることは出来るだろう。あるいは、驚いて叫んでいる人の絵を書くとか、それを文字で描写するとか、様々な驚きをテーマに音楽を作るとか。

Artとは技という意味であり、人間が工夫して手を入れるということだ。芸の術で芸術なのである。

だから、技術は非常に重要だし、技術が高いほうがいいに決まっているのだが、技術よりも重要なものがある。

感じる心、感性である。

心が感じるものが強いほうが、表現も激しくなる。何にも感じない人は絶対に表現など出来ない。心がドキドキして、喜怒哀楽が激しいほうが良いものにつながりやすい。

もちろん、激しさを表現するだけが芸術ではない。しかし、ある程度の激しさがあるほうが伝わりやすいのも事実なのだ。

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サッカー監督としての河内一馬の芸術について

さて、河内一馬氏との対面を前に、一つだけ懸念していたことがあったことを告白しなければならない。

河内一馬さん、嫌なやつだったらどうしよう。

ウェッブ上で魅力的な人懐っこい表現をしている人に実際に会ってみると、他人には一切興味を持たないナルシストで、一緒にいる時はずっとSNSをしていて、口を開いたら自慢話か、商材を売りつけようとしてくるだけでげんなりして帰ってくる。

こういうことも時にはある。そして、河内一馬氏の表現からすると、とんでもない石頭の堅物である可能性も少なからずあると懸念してみたのだ。

そして、対面。

 
満面の笑みで握手を求められる。

 
柔らかい、人の良さそうな握手。

 
無精髭などちょっと抜けた印象もある。

 
Kiten!はスポーツ居酒屋なので演者はお酒を飲みながら話すことが多い。そして河内氏は、スポーツ界にありがちな「お酒はトレーニングの邪魔なので飲みません」という反応をすると思っていた。

しかし――。

「お酒大好きなんですよ(にっこり)」

 

あ、あかん、この人ただのいいやつだ!!!

 

穏やかで知性的で、かつ腰の柔らかい好青年であるという、ちょっとそこまでは予想していなかった事案が発生したのであった。ウェッブ上の表現が少し硬めなのはあるのかもしれない。

そういう縁もあって、この記事も冒頭からしばらくは、いつものゆるふわ文章を封印して硬めの書き口にしている。

イベント内でどういう話が出たのかは、後日WMの記事になるはずなのでそちらをお楽しみに。

宇都宮徹壱ウェブマガジン

イベント内で、ぼくとしては聞きたいことは概ね聞けたので満足であった。

そして、肝心な芸術としてのサッカーと芸術の部分について、ディティールが一致するかどうかはわからないものの、サッカーには感情表現が重要であるということについては確認できた。

芸術の大本の解釈についてもある程度近似しているはずだ。

そして、河内一馬氏は、感情が噴出し、狂気に包まれるスタジアムに対して、強い愛情を持っていることがわかった。

これも観客目線、サポーター目線の考え方と非常に近い。サポーターについて考えるのは非本質的だと、戦術クラスタの人からは言われることがある。確かに、ゲームとしてのサッカーを突き詰めていくと、誰が見ていようが関係ないのである。

しかし、文化としてのサッカーについて考えると、見つめるもの、観客がいなければ極めて価値が低くなる。そして、河内一馬氏は、サポーターがもっとも大切なものだと考えている。サッカーの監督を目指すものの発想としては極めて珍しい考え方である。

これについてはぼくも意見を同じくしている。ブラジルワールドカップで狂気に包まれるアルゼンチンサポーターに遭遇したことで、日本のサポーターとは何だろうかと悩み始め、未だに決着がつかないでいる。そのせいで、サポーターをめぐる冒険はうまく書けなくなってしまい、混迷したのであった。

この動画を御覧いただきたい。未だに時々コメントがつく、スタジアムのこの状況は、ある種日本らしい狂気と言える。こういう観客席の状況だったので、選手も、関係者もみなサポーターに強い関心を持っていた。とても良い瞬間に立ち会えたものだ。もっとも、当時のGM矢部次郎さんは、マッチコミッショナーに絞られたかもしれないのだが。

もっとも、奈良クラブのサポーターもかなり様態が変わったらしい。日本らしい狂気など求めるのは不可能なのかも知れない。この風景は二度と見られないはずだ。それはカテゴリーが上下したこととは無関係なことのようだ。個人的にはとても残念に思っている。もっとも、変わった後どうなったかについてはよく知らないのだが。

 
 

スタジアムはサポーターの熱狂に包まれた狂気の空間であるべきという意見がある。

一方で、日本のサポーター論では、ヤジ将軍や、審判へのネガティブな言動などがしばしば議論になる。ぼくはもうこの議論には飽きたので参戦しないのであるが、これらは何度も何度も繰り返されている。

スタジアムは熱狂の場であるべきだとした場合、ヤジや悪口雑言などを容認しなければならない。もしヤジや悪口を一切禁止するということであれば、「静かに観戦する」というマナーを遵守しなければならない。それでは面白くない。

河内一馬氏の主張は、そんなおとなしい環境でサッカーをしていた選手が、世界に出た時に活躍できる可能性は低いというものである。確かにそうだろうなと感覚的には思える。

スタジアムは五感が解放され、抑圧されたすべての感情を開放することが許される場所であり、細かいことには目をつぶるべきだ。サポーターの尋常ではない量の感情に包まれたスタジアムは、炎のような熱気をまとう。

そして、その暴れ狂う感情の大本をコントロールするのが、監督なのである。

たとえるならばオーケストラの指揮者、だろうか。

河内一馬が情熱的にタクトを振るうと、選手たちはより激しく暴れまわり、それによって観客も狂乱していく。

それが、河内一馬が描く、芸術としてのサッカー論の先にある風景なんだろうなと感じ入った次第だ。ぼくも何度かそういう状況に直面したことがある。

東京と浦和が4−4で引き分けた試合もそうだし、『サポーターをめぐる冒険』に書いた2013年の天皇杯、FC東京vsベガルタ仙台もそうだ。

それこそが、求めるべきサッカーの世界なのだろう。子連れで安全に楽しめて、怖いことや感情を逆立てることが何も起こらない代わりに、大人しくて、熱狂することが出来ないスタジアムなんて、ぼくは求めていないのだ。

子供がいる身になってもそう思う。スタジアムはやはり狂うほどの感情であふれるべきなのだ。マナーや安全については、その先で求めるべきもので、熱狂を止めようとしてはならない。熱狂していないスタジアムは子供にとっても退屈極まりない。

2歳のときの長男は、味スタのバックスタンドに連れて行っても1分で飽きてしまった。居酒屋ムサリクが開催されていた東京武蔵野シティーの試合も、1分しか持たなかった。

一方で、ガンバ大阪のゴール裏に紛れ込んでしまった時は、熱狂するガンバサポをずっと目で追っていた。なんでそんなところにいたのかというと、味スタ開催の天皇杯決勝で、ゴール裏の中心を外したところに家族連れで座ったつもりが、なぜかそこが応援の中心になるという予想外の事態が起こったからだ。

味スタの2Fのバクスタよりの端っこが中心になるなんて予想がつくだろうか? それはさておき、ガンバの応援は楽しげなものが多く、子供もご満悦だった。試合よりも人を見ている時間がほとんどだったのだが、狂乱するスタジアムという文脈においては、本質的な反応と言えるかもしれない。

ただ、日本で、Jリーグでこういったものを達成していくには時間がかかる。不可能かもしれない。もしそれが達成できたとしたら、その時が日本サッカーが真の強さを得た時ということになるとしても、相当な時間がかかる。反発も大きいことだろう。

阪神タイガースの現状は、ある意味では狂気であり理想なのだろうと思われるが、阪神タイガースがすでにあるから出来ることであって、新しいチームがまねをするのは難しいのだ。文化として根付き、定着し、ある意味では地域に甘やかされているからこそ出来ることなのだ。

サッカーの現状はそうではない。風当たりはとても強い。サッカーサポーターが電車の中で歌いでもしたら、翌日のTwitterは大荒れになるだろう。サカ豚は日本の恥という文字が嬉しそうに踊っていることだろう。

 

ぼくは、戦術的に先進的であるかどうかは最重要ではないと思っている。重要ではあるし、関心はあるが、最重要ではないのだ。阪神タイガースや広島カープが人気チームになったのは、戦術的に優れているからでは断じてない。

サッカーの文脈において一番大切なのは、戦うためのメンタルセットであり、それをチームで共有し、連動させることであり、巨大な熱の塊になって相手に襲いかかり、木っ端微塵に粉砕することだと思っている。

あるいは相手も同様の気迫を発してぶつかることだ。漫画の例になってしまうのでわからない人もいるかもしれないが、『One piece!』におけるマリンフォード頂上決戦は良いサッカーの試合である。

試合に勝つという目的のために、白ひげ軍も政府軍もなりふりかまわず全力でぶつかりあっているからだ。卑劣なだまし討ちが含まれるところも非常にサッカーらしい。

さておき、サッカーが真の人気スポーツになるために必要なのは戦術だけではないのだ。戦術がないと世界と戦う際に足をすくわれるので必要なのだが、最も重要なのは熱い魂だと思っている。そして、日本代表にはまだそれがない。

これは個人の感想だが、そうとしか思えない。本当に強いチームが持つ迫力を持っていない。

日本代表は「弱々しくて不安だからドキドキしながら応援する」というチームであって、自信を持って任せられる強力なメンタルセットを持つチームではないのだ。

このあたりはぼく個人の意見・感想で、河内氏とどこまでシンクロするかはわからないのだが、概ね似たところを見ているのではないかと思う。

だから、河内一馬監督には心の底から期待している。彼こそが日本に必要な人だと思うし、着実にキャリアを積んで大きな仕事をしてほしい。

ところで、そういった狂気を巻き起こす指揮者として、河内一馬氏はちょっと知的で頭でっかちすぎるんじゃないかという気持ちも正直持った。シメオネみたいな情熱的な監督じゃないと狂気の空間は作れないものなんじゃないかとも思ったのだ。

そう思ったのでダイレクトにぶつけてみた。すると、こんな答えが返ってきた。

「ぼくは普段はあまり感情は出さないのですが、サッカーが関わるとぜんぜん違うんですよ。サッカーをしているときだけはすごく感情的になります」
 
「シメオネみたいに?」
 
「そうですね。」
 
「じゃあ、将来、審判に噛みつきすぎて退場する河内一馬が見れるってこと?」
 
「ああ、退場する可能性は高いです。はい、多分すると思います。」

わはははは。それは楽しみだ。ぼくらの眼の前から生まれようとしてるサッカー監督が、テレビの向こうで、あるいはスタジアムの眼の前で、大激怒して退場するところを目撃することが出来たら、それはどんなに楽しいことだろうか。愉快痛快なことだろうか。

河内一馬氏は、サッカーでは感情を出すことはプラスに働くし、それが出来ないのが日本サッカーの問題点だと語っている。若き情熱的指導者の将来に、心から期待したい。

だからこそ言う。

河内一馬は退場したほうがいい。

そのためには、退場できるような身分に上り詰めてほしい。つまり、どこかのクラブで指揮を取るところまで早く行ってほしい。そして、アルゼンチン仕込みの猛烈なモチベーターとして、日本サッカーに活力を加えて欲しい。

人生の楽しみが、また一つ増えた。

早く河内一馬監督の退場が見たい。

あ、あと、この記事を読んだ方は、ぼくのnoteも是非フォローしてください!!河内一馬に少しでも追いつかねば!!

中村慎太郎|note

こちらは2014年に上梓した拙著です。サポーターが主役になるという価値の置き換えを行い、日本史上初のサポーター文学になったと、出版社”ころから”のパブリッシャー木瀬さんは言ってくださいました。

河内さんの目指すサッカーと、一番遠いところにあるようで、一番近い物語かもしれません。

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