【お勉強-08】 『浦和レッズ』 その1 平均入場者数の推移
浦和レッズについて
この記事は、敢えて平均入場者数だけを見た結果と、そこから考察できることを書いている。簡単に調べられるものや、特に気になったものは調べたが、あまり深くは追求しない(2周目以降に違うファクターを追加するかもしれない)。
記事執筆の主目的は、著者が情報を整理しながら勉強すること。
※2014年は10月2日現在
結果(図表から読めること)と考察(結果をもとに思いついたこと)
・図表の縦軸が足りません。途中から完全に“壁”。
⇒まずは壁になる前について結果と考察。
・Jリーグオリジナル10の一員で、当時最弱であった。
・あまりの弱さにニュースになるほど弱かった。
・Jリーグ元年の両ステージともに最下位。翌年の第一ステージも最下位(当時は2ステージ制)。
・1993年は、鹿島アントラーズ(サントリーステージ)とヴェルディ川崎(ニコスシリーズ)に目の前で優勝を決められた。
・1994年のセカンドステージより、ギド・ブッフバルトやウーベ・バインが加入し、クラブの調子は上向きになっていった。
⇒ブッフバルトが出ている試合は何試合かがテレビで観戦した記憶がある。そういえば当時、サッカー部の半幽霊部員だった。
・1995年にオジェック監督が就任すると1stステージ第三位まで躍進する。
・福田正博が得点王(当時熱烈なファンだった妻は、このニュースに号泣したらしい)。
・その後は中位に留まるようになり、1999年、福田正博の「世界で一番悲しいVゴール」と共にJ2降格。
1999年J1最終節 – Wikipedia
・その時のメンバー表を見ていたら、山田暢久、小野伸二、広島側には森保一、高橋泰(カマタマーレ讃岐に所属)、森崎和幸など、知っている名前が結構いて驚いた。ぼくの場合は途中で18年くらいJリーグを見ていない期間があったのだが、それでも連続性が見いだせた。ずっと見ている人は本当に楽しいことだろう。羨ましい。
流石、浦和レッズだけあって、語りたいことがたくさん出てくるが、とりあえずJ2を戦った2000年までの傾向について記述したい。
・初年度は平均11459人だが、これは10チーム中最下位。弱いだけではなく、客も呼べないクラブから始まった(ちなみに、1位はヴェルディ川崎の25235人、リーグ平均は17976人)。
「追記」
Twitterで教えてもらったので調べてみると、駒場は93年は10000人キャパ、94年に改装し(改装中は大宮公園サッカー場、約10000人収容)、95年の2ndステージより21500人になったそうです。というわけで客を呼べないというのは誤り。まさかそんな収容力の小さいスタジアムから始まっていたとは……
スタジアムの変更についてはわかりやすいものの、増築というファクターはもう少し厳密にチェックする必要がありそう。
ほんと良い勉強になってます。
「追記終」
当時のホームでの観客数については、これを見ると一目瞭然。
J. League Data Site
・しかし、翌年から18475人と約7000人の増加がみられ、1996年には24239人を記録する。この数字は16クラブ中1位。当時の「駒場」は2万人強しか収容数がなかったのだが、国立で開催した試合で5万人以上を記録しているため平均値が跳ね上がっている。
⇒オジェック監督によってクラブが躍進した時期でもある。
「駒場でサッカーをしていることをテレビで知って、気付いた時には駒場に向かっていた」と、古くから浦和レッズを応援しているサポーターから聞いたことがある。
浦和の住人にとって、駒場公園というのは非常に馴染みのある場所らしく、そこにスタジアムがあったこと、また駅からスタジアムに向かう道に飲み屋が多かったこともサポーター文化(応援することを軸とした生き方)を形成する上で有効であったようだ。
「追記」
駒場公園とはあまり言わず、ただ駒場というのが一般的とのこと。駒場公園といっている人も見たことがあるが、それは例外的であった模様。また、スタジアムに向かう道には飲み屋はあまりないらしい。一回駅まで戻ってから飲んでいたのだろうか。
初期浦和レッズの発生過程は、地方クラブにとって参考になることも多そう。
「さらに追記」
いくつか修正点を頂いたのでニュアンスを損なわないように引用したい。
「ブログ訂正お疲れ様です。駒場から浦和に飲みに行く場合「駅に戻って」と言う表現は適切じゃないです。浦和駅は東西を通り抜けられない構造だった(最近通り抜けられる通路ができた)ので、駒場から歩いて、駅までは行かずにガードをくぐり西口へ出ていました。」
「ついでに駒場の呼び方について。駒場から徒歩5分に実家のある嫁に聞いたところ、駒場公園とは「言わない」と断言してました。正式には駒場運動公園ですが、大方は「駒場」と言います。まあ、正式名称を駒場公園と思い込んでいる人がいるかもしれませんが。」
だそうです。
・1997~1999年も20000人以上を記録するが、J2に転落。
・J2でも15000人以上を動員する。
・圧倒的な強さでJ1返り咲き……とはいかず、1位をコンサドーレ札幌に譲り、2位で昇格した。勝ち点1の差で大分トリニータが迫ってくるという何ともスリルのある昇格であったようだ(最終節は、浦和が引き分け、大分が勝利で勝ち点1差……ということは浦和が負けていたら勝ち点で並び、得失点差で大分が昇格していたことになる)。
何とも危なっかしい船出をした浦和レッズの名前が世界に鳴り響くようになるのは、埼玉スタジアムが使えるようになってからのこと。
長くなったので、浦和レッズについては2記事に分けることにする。
後半は“壁”になっているエリアについて。
REDS 20th Digest―埼玉新聞で振り返る浦和レッズ20年の軌跡
フットボールサミット第5回 拝啓、浦和レッズ様 そのレッズ愛、本物ですか?
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