その男、2つの顔を持っている。物書き編


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池波正太郎の『その男』という小説があります。ぼくの中でぶっちぎりで1番かっこいいタイトルです。ただし、内容はよく覚えていません。幕末ものだっただろうか、江戸時代だっただろうか……。

調べてみると幕末の仮想ものだったようです。歴史小説には、歴史上の実在の人物が主人公のものと、架空の人物が主人公の仮想ものがあります。

内容はまったく覚えていないのにタイトルにだけ、異常なまでに惹かれることがあります。そういうこともあるので、タイトル付けはとても大事です。

と思って、今回ブログ記事に「その男」という言葉を使ってみましたが、あまり座りがよくありません。とはいえ、座りが悪いタイトルのほうが読んでもらえることもあるのでなかなか難しいものです。

文章表現というのは、暗闇の中に石を投げるようなものだと、ぼくは繰り返し言ってきました。
昔からブログを読んでくれている奇特な方は見飽きてるかもですが、懲りずに何度も何度も書いています。どうやら自分にとって大切な感覚のようです。

石が何に当たるかわかりません。誰にも関心を持たれずに、時間と共にかき消えていくかもしれません。そして、ブログに書く文章というのはおおむねそういう運命にあります。

だから書かない方がいいというのはある意味正解ですが、ある意味不正解です。

1つには、誰にも刺さっていないと思った文章を覚えていて、何年か経った後に話題にあげてくれる人に出会うこともあります。自分でも知らないうちに、表現したものは誰かの糧になっていることがあります。

これが物書きとしては1番嬉しいことなのですが、驚いてばかりになってしまってうまくリアクションが取れないことが多いです。本当に喜んでいるときはそういう反応になるのかもしれません。

「どこどこで読みました」とか「どこどこで聞きました」と言ってもらえることほど嬉しいことはないのですが、どういう風に返したらいいのか最適解が未だに見つかっていません。いつも、それを書いたときの裏話とか、前後の文脈とかを話すようにしているのかな……。安定しませんが。

とにかく嬉しいので大歓迎です。

昔、東大受験について文章をまとめてウェッブで公開したことがあります。それは素人が書いたものなので誤字脱字も多く、構成もなっていないので読みやすいものではありませんでした。

しかし、誰かの胸には届きます。

その文章を読んで発憤した若者が、一生懸命勉強して慶応大学に合格したとコメントで報告してくれました。

ああ、でも、ぼくは、とても嬉しかったのですが、何と返したらいいかわからずに返事を書かないままになっていました。ちゃんと読んでいたし、これ以上に嬉しいことはなかったのに。

とはいえ、嬉しいと言っても、文章を書いた結果、何かの成果を得ることは「副産物」に過ぎません。

書くことの最大の喜びは、書くことです。

書いていること、書き上げることが1番達成感があって嬉しいことなのであって、そのあと得られるものはデザートみたいなものです。喩えるならスポーツした後の冷たい水でしょうか。

こういった考え方はおかしなものかどうかを検討する際に、書道家で考えてみるとわかりやすいです。

「自分と向き合って字を書くことが1番楽しい」という書道家。

「書いた字が人から評価されることが1番嬉しい」という書道家。

後者は非常にうさんくさいですね。ぼくは文章を「表現」と考えているので、あくまでも書くことが主であって、それが売れるとか、人に刺さるとかいうことは、あんまり考えていません。書きたいから書くのであって、稼ぎたいとか、誰かに届けたいとかいうものでもないようです。

今だって、ワールドカップについて書けば多くの人に読まれると思います。それもどこかで書こうとは思いますが、今が書きたい時ではないので書きません。

書きたくなったら書きます。その時どのくらい読みたい人がいるかは関係ありません。

ぼくにとって文章は表現であり、物書きとしての自分は頑固な芸術家であることに気づきました。

依頼にあわせて器用に文章を書くことはあまり上手ではないですし、楽しくもありません。技能はあるので仕事として受けた場合にはやりますが、それはあくまでも仕事であって、日雇いで引っ越しをするのとあまり変わりません。

やはりぼくにとって大事なのは、文章を書くという作業を、仕事という括りから解放することなんだろうと思います。仕事として生産するという色合いをなるだけ薄くして、表現として書いていくことが大事です。もちろん、仕事的なライティングもゼロにはしませんが、あくまでもそれは「書く」という作業とは異なるものだと認識しておくべきなのです。

サッカー選手が、サッカーで鍛えた肉体を使って引っ越しの仕事をしているようなものです。
引っ越しは引っ越しであり、サッカーではありません。

同様に、ライティング業務はライティング業務であり、表現としての書くこととは違います。

編集者には、ぼくがそういうタイプの物書きであることを認識してもらって、自由に楽しくすることを重視してもらうようにお願いしておくといいのかもしれません。

『サポーターをめぐる冒険』は自由に好き勝手書いた作品です。その結果、自分でも思わなかったある結論へと到達します。それは、20歳の時の、大学のキャンパスです。

サッカーを応援するという行動と、昔の挫折していた頃の自分が結びついていたという発見をしたことが、ぼくにとっての最大の成果であり喜びです。

それは非常に個人的な動機ですが、誰かを応援する人生を選ぶ人は、誰かに応援されるだけの何らかの理由を過去に持っているという仮説です。もちろん、自覚できないことがほとんどだと思っています。しかし、間違いないことは、我々がスタジアムでサッカークラブを応援している時、我々も同時に何かに応援されているのです。

これが真理なのかどうかはわかりませんが、仮説としては成立します。

出版されるとか、印税が入るとか、賞を取るとか、多くの人に感想をもらえるとかいうことはとても嬉しいのですが、書きたいことが書けたこと以上の喜びにはなりません。あくまでも、戦い終えた後の冷たい水です。

『サポーターをめぐる冒険』については、300時間以上格闘した結果、思わぬ発見をして、結果、人はどうしてサポーターになるのかという仮説を提示できたことが最高の成果であり、喜びなのです。

本を出した結果、世の中に受け容れられるかどうかはわかりませんでしたが、とにかく暗闇に向けて全力で石を投げるしかありませんでした。

あの本が世間に受け入れられて、最終的に賞まで取れたのは、熟練の編集者である、ころからの木瀬さんが文章の価値を見抜いてくれて、それにあわせたブックデザインを突貫スケジュールで組み、タイトル付けや文章の修正などの最後の味付けをしてくれたからであって、ぼくの功績ではないのです。

本が出版されて書店に並ぶことや、印税が入ることが、嬉しいには嬉しいのですが、思ったよりも嬉しくないことに自分では驚いたくらいです。

それよりも、『初観戦記事』を10日間かけて書き上げた時の喜びのほうが強く残っています。

極めて不器用な芸術家というのが、物書きとしてのぼくのようです。自分でも不思議なくらいちょっとした言葉のやりとりでへそを曲げやすいし、結構すぐ怒ります。

W杯期間中にTwitterで絡んできた人に対して、それは明らかに文章を読まない人なんですが、「あなたの文章には味がない」と言われました。

そして、「文章の味とは何か説明してみろ」と言い返してしまい、恨みを買ってしまったのは反省点です。その人が、文章の味について語れるわけがないのです。それを知った上で聞き返したのは、ぼくは「文章の味」とか「文体」について2時間でも3時間でも語っていたい人間だからです。

何でもいい。どんな本でもいいです。一ページだけ読んで、この物書きの特徴は何か、長所は何か、短所は何か、その人だけが持っている味はあるのかなどを議論するようなことが大好きなのです。

ぼくの文章は、確かに『サポーターをめぐる冒険』の時は、若い桃みたいなもので、味には深みがありません。が、あれも、あの時にしか出せない味なのです。

あの若さは、人生でもあの時にしか出せないと思い、必死に文章に取り組みました。だからこそ、実りがあったわけです。

ただ、客観的に見て、どういう味わいに見えるのか、どこが足りないのかなどという話は喉から手が出るほど聞きたいです。どれだけボロカスに言われても傾聴します。文章とは何なのかを考えることが大好きだし、1番の喜びなのです。

特にサッカーの試合の描写は、これまで出ているサッカー本と比較しても、それほど悪くはないと思いますが、絶対的に良いとは言えません。試合を描写するのはぼくの中で大きなテーマであり、次回作を書くという段階で大きく挫折した要因の一つでもあります。

サッカーの試合は、終わった途端に忘れ去られていく運命にあります。もちろん、ワールドカップの試合は別です。何度も繰り返し思い起こされます。

ただ、それは特殊な例で、普通のリーグ戦は、翌週には忘れられています。

それでいいのだろうかという問いがぼくのスタート地点でした。サッカーの試合は、どの試合も熱く、面白く、価値が高いのに、その1つ1つが消費されていってしまうことがもったいないし残念だなと思いました。

ぼくはどの試合でも面白いと感じるし、どの試合でも面白く書けるはずだと思いました。

が、当時はサッカーの知識も乏しく、サッカー観も形成されておらず、また、表現力も不足していたので非常に苦しい戦いになりました。

『サポーターをめぐる冒険』の天皇杯、FC東京×ベガルタ仙台は、非常に熱量が高い試合で、今まで見てきた試合の中でぶっちぎりで最高です。

だから、熱量を持って書き上げることは出来ましたが、あの時試合を見ていたFC東京サポーターにしか伝わらないものはあります。それはある程度は仕方がないのですが、非常に苦しいところでもあります。

サッカーについての文章は、サッカーの試合を超えられません。

それはサッカーライターの言説が、サッカー選手の言説を超えられないことに構図としては似ています。

実際に試合を見るよりも、サッカーについて書いてある文章を読む方が面白いとはそうそうならないのです。あくまでも副次的なものです。端的に言うとつまらんのです。

しかし、熊崎敬さんの著書『日本サッカーはなぜシュートを撃たないのか?』(文藝春秋)では、普通の試合が非常に面白く書かれています。観たことがない松本山雅と愛媛FCの試合が、その試合を見たときよりも面白く感じられるように書かれています。

良質なサッカーエッセイ集でとても面白いのでお勧めですよ。

熊崎さんは、ライターズライターとでもいうような方で、某氏や某氏のようにネット上であれこれ言われるようなことはあまりありませんが、見識の深さや文章力の高さから業界人が一目を置く存在なんじゃないかと思っています(他の人に聞いたことはありませんが)。ぼくの尊敬する書き手の一人です。

1度だけお会いしたことがあるのですが、「サッカーに熱狂している海外の町に潜入して、そこで過ごすのが好き」というお話を聞いて、だから文章が面白いのかと深く頷いたことがあります。

トルコのどこかのクラブのサポーターは、試合が終わると椅子を投げるのだとか。大相撲で座布団が舞うように、取り外し可能な椅子がスタジアムを舞うそうです。そういうところにいるのが好きというのは、まさしくサッカー文化が好きと言うことだし、それこそが愛なんだろうなと、ぼくの観点からすると感じられます。

正直言って熊崎さんが書いていることは大きく外れているように思えることもあります。しかし、サッカーが根付いている場所に足を向け、その場所で考えたことだからとても価値があります。それは芸術的価値というべきです。

そういう意味では日本代表を追うというのは、サッカー文化からすると極めて空疎に感じられます。というのも、、ワールドカップとは、地に足が付いたサッカーとはまったく別の、極めて露骨な商業主義にまみれた4年に1度だけ行われる幻のような大会だからです。

そんなことを言っていたぼくが、代表のことを書く日が来るとは思いませんでしたが、時間は流れるし、ぼくもブラジルに行ってからというもの日本代表の物語にはすっかり巻き込まれています。

いや、南アフリカでの本田圭佑選手のFKを見たときから運命は変わっていたのかもしれません。

今回のベスト16がハッピーエンドなのかバッドエンドなのかすらも評価できないのが今の状況なのでうまく文章には出来ませんが、一言で言うと「変な感じ」です。

ぼくが日本代表の戦術やら、川島選手の競技上の評価とかを人に聞かれるなんて半年前は、誰も信じなかったと思います。ぼくも信じられません。

4月に書いた『発狂記事』が、現在33万ページビューも記録していて、これは自己ベスト更新です。この記事は誰かに読んでもらおうと思って書いたわけではなくて、今の自分の気持ちを整理してnoteに置いておこうというくらいの気持ちでした。

ただし、全力で書いてはいます。読み直しすらもしていない一発公開なのでなかなか恐怖ですが、一発で書いても誤字脱字は減り、構成ミスもしなくなってきたという意味では、物書きとしては成長してきたと言えるかもしれません。

全力で闇に投げた石は、多くの人に当たりました。と書くと怪我をしそうですが、石は柔らかいので痛くないということにしてください。あるいは、人というよりも、こころに当たるというほうがいいのかもしれません。ここは、ちょっと表現を修正しないとかもですね。

この記事が何の意味があるのか。誰かの役に立つのか。人に読まれるのかというのは、まったくよくわかりませんが、そういうことは考えずに書きたいように書くのがぼくには合っているようです。

こういうの書いて下さいと言われるとうまく書けないかもですが、bar bossaの林さんみたいに質問にこたえるという形なら出来るので、こんなネタでブログ書いてねという方がいたら、質問箱まで是非どうぞ。

と唐突に新機軸を初めてみます。

匿名質問箱

2つの顔、物書きと喋る人について書こうと思ったのですが、字数があれなので喋りについては次の記事にしようと思います。


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