文章としての整合性はいまいちなのだが、思いつくままに書いた。推敲なし。
先日磐田に行った時に、サッカー仲間から「最近病んでない?大丈夫?」と言われた。
そうか、随分前から知っているような気がするけど、半年の付き合いだったのだ。
ある意味では、病んでいるように見える状態が普通なのかもしれない。
陽気な物書きというのもいるのかもしれないが、決して多数派ではないだろうと思う。
昨日、散歩をしていると、首に包丁を当てた状態で寝転んでいる男がいた。50歳くらいだろうか。いかにもおじさんらしい、安っぽいテカテカのジャンバーを着ていた。
光溢れる緑の公園の中、思い詰めた表情の男の首にあてられた包丁は、恐ろしい状況にもかかわらず、陽気にみえるほど明るく光ってみえた。
とはいえ、子供も遊ぶ公園の中だ。これはやばいなと思い、即警察に通報した。早いもので5分後にはパトカーが到着。10分後には20人近い警官が現れた。
聞いてみると借金などの生活苦を抱えていたようだが、警察官としても話しづらいことのようでだいぶぼかした話を聞かされた。
ぼくは包丁を持った男に追いかけられても逃げ切る自信があるのだが、その時は妻と2人だった。妻はかなり怯えていた。そりゃそうだ。あんなにギラリと光る包丁を見たらギョっとするのが自然だろう。
ところでぼくは、突然通り魔が現れた際にどう行動するかを考える習慣がある。現実に役立つ日が来るかはわからないが、突然地震があったら、突然通り魔が襲ってきたら、そんなときにどうするかを、場所に応じてシミュレーションをする癖がある。
ぼくらは一本道にいた。
男からは何の活力も感じられなかったので、襲ってくるとは思えなかったが、仮にこういう場所で、あの包丁男が追いかけてきたらどうするか。
ぼくなら、一瞬逃げると思わせた後、即切り返して、全速力で相手に向かい胸の辺りに跳び蹴りを入れる。そして着地したら、即走り抜ける。
とまぁ、これはあくまでも妄想で、実際はこうはいかないだろう。
真の災難はその妄想にあった。男が警察に連行された後、
「俺ならこうやって跳び蹴りするね」
と言ってぼくは全力で実演した。助走の速度もなかなかのもので、しっかりと高く跳べていた。相手の胸の辺りに強力な打撃を与えて、吹っ飛ばすことも出来るだろう。
その蹴りはあまりにも見事で躍動感があるものであった。ここ数年で一番からだが切れていた瞬間だったかもしれない。生死の境にいる男性を見た直後であったためアドレナリンが出ていたのかもしれない。
ポケットからスマートフォンが飛び出していった。
そして高く飛んだ後、地面に叩きつけられた。
曲がって、割れた。
青梅FCのステッカーをつけて、ブラジルを共に旅した相棒が壊れてしまった。
ぼくらは散歩を中止して、auショップへと向かった。驚くほど親切な店員さんが対応してくれた。プランの見直しで、月賦分のお金を浮かし、ほとんど金銭負担がない状態で機種変更することができた。
Z1がZ3になった。
唖然としたままサイゼリアに行き、気持ちを落ち着けるためにビールを一杯飲んだ。
ぼんやり歩いて帰宅すると、実況検分への協力を依頼する電話がかかってきたため、再び現場へと向かった。
何にもしないうちに一日のほとんどが終わってしまった。
しかし、悪いことばかりではない。最新のスマートフォンはなかなか性能が良い。特にカメラが良さそうだ。仕事上でも役に立ってくれそうだ。
それに、自殺しようとしている人を目の当たりにしたことで、何かが変わった気がする。原稿が書けない間は、ぼくもずっと死にたいなぁとうすらぼんやり思っている。
もちろん、自殺しようなんて思わないが、心のどこかから死にたいという気持ちが湧いてくるのだ。現世は嫌なことが多すぎる。何もかも終わらせてリセットしたい。そんな気持ちになるのだ。
もちろん、そうすることは出来ないし、するつもりはない。しかし、包丁こそ手には持ったことはないが、そういった心情で寝転んでいたことは何百回もある。
本当に何もうまくいかない。世の中に対して不義理ばかりしている。どれだけ頑張っても、人はぼくを「減点」していく。申し訳ない気持ちでいっぱいになり、生きているのが辛くなる。迷惑ばかりかけているのだ。
多分こういった心情は、どれだけ成功したとしても変わらないだろう。どれだけうまくいっても、どれだけお金があっても、生活苦で自殺しようとしているおじさんと、紙一重のところを生きることになる。
人生は、本当にうまくいかない。
だから。
だからこそ。
文章を書かなければいけない。
もう本当に、文章を書くことでどうやって生活を良くしていくかすらよくわからない。しかし、書くしかない。ぼくにはこれしか出来ないのだ。
そう感じたのは先日の面接の時だ。
もう本当にキャッシュフローが悪くてどうにもならないから、某書店の面接にいった。
普通のアルバイトとしてはありえない量の書類を作っていった。
履歴書、職務経歴書、作文2本。
作文の中には、その書店の役に立つように、必死に考えていくつか提案も示した。
しかし、惨めなものだ。面接に行った時、面接官があれほど苦労した書類を読んでいないことがすぐにわかってしまった。その場で怒ったほうが良かったのかもしれないが、そんな気力もなかった。
心を込めて書いたものが読んですらもらえないというのは悲しいことだ。
本当にみじめな気持ちになった。帰る途中、帰ってから。虚しくて泣くことすら出来なかった。
ぼくはバイトの面接でも相手にされない無能なのだ。あの書類の何が悪かったのだろうか。いや、悪い以前に読まれてもいないのだ。一体何をどうすれば良かったのか。もちろん、志願した先が悪かったのかもしれないが、やはり悲しいものは悲しい。
この心情。最初は怒りに変換された。
1ヶ月以上待たされた上でのあまりにも酷い対応を糾弾する檄文を書こうかとも思った。
しかし、それは違う。決定的に違うのだ。
邪悪な気持ちを、邪悪な文章にしてはならない。
惨めさ、辛さ、悲しさを感じたならば、世の中の同じ気持ちを抱えている人を救うような文章へと変換しないといけない。
ぼくのケースは、本当に小さいものかもしれないが、世の中の理不尽に悩まされている人はたくさんいる。包丁を首にあてたおじさんもそうであろう。小さな子供の頃には、自分が将来、テカテカのジャンバーを着て、公園で自殺を試みるとは想像もしなかったのではないだろうか。
文章を書く意味は、お金を稼ぐことではない。
そのためにはあまりにも効率が悪すぎる。
誰かがほっと一息つけるように、暖かい気持ちになれるように、ああ生きているのも悪くないなと思えるように、心を込めて文章を綴るのだ。
作家に必要なのは文章力などという実態のない能力ではない。
感じる力と、感じたものを変換していく力。あるいは、その加減を修正する努力量なのだ。
生活苦のおじさんが、残りの人生に対して「夢」を持つことが出来たら。何としてでも生きていたいと思ったかもしれない。
「夢」っていうのはそういうものだ。
サッカー業界は、なんでもかんでも「夢」という言葉を使う。そうすれば綺麗にまとまると思っているんだろう。某クラブが昇格プレーオフで破れた時、「夢が潰えた」というような表現が使われているのを読んだ。
昇格という目標は、大抵の場合、機械的に「夢」と翻訳される。それは違うだろう。他人の夢を勝手に決めちゃいけない。
ぼくには書きたいことがあるし、書かなきゃいけないことがある。
もしかしたらそれは「夢」という言葉を使わずに、「夢」について書くことなのかもしれない。
ようやく形になってきた「ちょんまげ隊」の原稿。
これは最初に主張をしなかったせいで、自分が描こうとしたものとは全く違う物になってしまった。それならそれで割り切ったらいいのだが、やはり納得していないものは出せない。
編集の方針に従わず、自分らしい原稿に完全に変更することにした。それをもとに編集してもらえたらいい。最初にもっと主張するべきだったな。あるいは最初の段階で断れば良かった。物書きとしての自分にプライドを持ち、軽視されていると思ったら怒るくらいでいいのかもしれない。
相手方としては軽視しているつもりはなく、むしろ善意であっても、こっちが不本意だと思ったら主張したほうが親切なのだろう。黙っていると穏やかな「いい人」だと思われてしまうこともあるので、ちゃんと自分を出さないといけない。特に原稿を作る現場では、どれだけ自分を出すかというのが勝負だ。そうじゃないと果実としての良い原稿は出来ない。
自分なりの表現になってからも時間はかかるが、確実に進行はしている。しかし、相変わらず難しさは残る。もうこれ4ヶ月もやってるんだよな。ボランティアなのにね。なぜ、ぼくのキャッシュフローがきつくなるのかがこの一例だけみてもよくわかる。
Jリーグ関係の原稿は、非常に良いものになりそう。
ただ、こっちも書くのが大変だ…… とはいえ、ほぼ骨組みは出来たので、あとは美味しく味を付けるだけ……
そして、ブラジルW杯。
日本代表が負けたこともあって、どうせ売れないから出版不能と言われているW杯本だ。
だから電子書籍で出そうかと思っているのだけど……
世の中には売れなそうな題材の本というものは、たくさんある。そういった類いのものに比べたらマシかもしれない。
うーーーーーん。
もっと集中して書けたらいいんだけど、執筆のために使える時間が全然足りない。
ぼくの文章は、正面から書いていくだけじゃなくて、色んな角度から、多くの要素を加えて、「挟み込み」的に書いていくから、本当に時間がかかる。
独奏ではなく、オーケストラを作っている感じ。
音韻的な味付けもしないと納得いかないし。
ああ、時間を止めたい。
白ウサギなり、プーさんなりが欲しい。