朝目覚める。
その瞬間は真っ白な自分である。
まだ何にも汚されていない純白の自分がいる。
しかしながら、次の刹那、あっという間に色が付く。昨日までの色が戻ってくる。
ベッドから起き上がる時には、既に何者かになっている。戻っている。
俺は、物書きとして目覚めていたか?
ぼんやりと起きて、ぼんやりと仕事に備えて、空いた時間でぼんやりと原稿を書こうとしていたんじゃないだろうか。
起きて1分で物書きになっているほうが、3時間後に物書きになるよりもいい。ぼくは、文章が書きたい。だから、文章が書けるように人生を最適化しないといけない。
そのためには、起きてから物書きになるのではなく、物書きとして眠りにつき、物書きとして目をさますべきだ。1分も余白はいらない。
物書きとして朝食をとり、物書きとして電車に乗り、物書きとして筋トレをして、物書きとして書店業務をして、物書きとして文章を書け。
冴えないボツ原稿ばかり書いているのは、覚悟がないからでも、実力がないからでも、環境が悪いからでもなく、物書きとして目覚めていないからだ。
昨日は本当に嫌なことがあった。
しかしながら同時に、物書きとして最高の糧をもらったとも言える。その閃きも昨日得られた。
好かれたいわけでも、お金が欲しいわけでも、名誉が欲しいわけでも、尊敬されたいわけでも、チヤホヤされたいわけでもない。友だちが欲しいわけでもないし、誰かに勝利したいわけでもない。
燃え上がるような文章を書く。
自分の人生をすべて文章にぶつける。
それだけがやりたいことで、それ以外のことはどうでもいい。
どうでもいいといいつつも、やらなければいけないことはたくさんある。
そのすべてを物書きとして取り組むべきだ。
摩擦を恐れず、妥協はしない。そして、「納得していないのに握手をするな」。これはfootballistaの木村さんの言葉だ。
木村さんも、戦闘的な文章を書く人であった。
それは戦闘的な生き方をしてきたということであり、物書きとして生きているということだろうと解釈している。
今日は物書きとして過ごす。そして、物書きとして寝て、物書きとして目覚める。
もし、それが出来なかったら、自らに怒声を発すべし。
そして、大事なのは、人に会う時にはモードを変えて、柔らかい卵と接するようにすること。
同時に、肝に命じるべし。