全国高校サッカー選手権の準決勝および決勝に行ってきた。本当は、フクアリ、三ツ沢や駒場などで行われていた準決勝までの試合のほうが、高校サッカーの雰囲気が出ているから面白いという話だったのだが、年末・正月に家族と仕事を放り出してまで行きたいというモチベーションはなかった。
だって、学生サッカーでしょ?
学生スポーツはプロサッカーより下位にあって然るべきものだし、プロサッカーよりも高校サッカーのほうが面白いということは現実にはあってはならないことだと思う(ある意味面白いという変化球ならわからなくもない)。何故なら、高校サッカーのほうがJリーグよりも面白いということであるならば、Jリーグの存在意義がなくなってしまうからだ。
たまたま昨日一緒にバスケをした清水英斗さんから聞いたところによると海外ではユースの試合があれほどの人気になることはあまりないそうだ。
ということで優先順位は低かった。注目するのは、「注目されることで商売している」プロ選手だけでいい。学生達のスポーツは本質的には見世物ではないのだ。
高校サッカーは、誰かのための物語
高校サッカーといって思いつくのは、高校生らしい青臭い応援と、負けた選手達の涙だった。甲子園を思い出す。実はあれもあまり得意ではない。母校の安田学園のことは毎年応援しているし、春大会にようやくし出場した時は心から応援したが、それ以外のチームについては基本的に無関心だ。
青臭い応援。それはJ1チームの凄まじい応援に比べると全く洗練されていない。管楽器と「スティック」に頼った応援だ。
もちろん好感度は高い。普通の高校生が、自分たちの学校の代表を応援するために、全力で応援しているのだ。それは尊いものだし、その姿勢には感動すら覚える。しかし、我々はただの傍観者にすぎない。応援の担い手にはなれないのだ。例えば星陵高校については、有名人になった卒業生の名前こそ知っているが、応援しようと思うほどの馴染みはない。
星稜高校の応援を心から楽しめたのは、在学生であり、卒業生であり、関係者だ。石川県の出身者でもそういう人はいるかもしれない。
あの応援は外から眺めていても良さはわからない。参加して始めてわかるのだろうと思う。自分が選手として出場してフィールドを走り回っていたとしたら、あれほど価値のある応援はないだろう。いつも一緒の場所で時間を過ごしている仲間達や、可愛いあの子達が、真剣に全力で応援してくれるのだ。想像はできるが、彼らのストーリーは外側から眺めるしかない。
そして、試合が終わると負けたチームの選手達は大泣きする。数万人の人間がスタンドから見守る中、さらにもっと多くの人がテレビから見つめる中で、恥も外聞もなく涙を流す。その姿を見ると「これって見てもいいものなのだろうか」と不安な気持ちにすらなる。試合に負けて悔しくて泣いてしまうというのは選手達のプライベートな部分ではないのだろうか。
ぼくは見たくない。夢に破れた18歳の若者が泣いているのも見たくはないし、挫折した若者達をみて「青春っていいなぁ」などと高みの見物をしている大人にもなりたくない。ただ、悔しさを感じてしまう選手の気持ちはわかる。自分もその場にいたら泣いていたかもしれない。選手達にとっては、良い悪いはそれぞれだろうと思うが、大きな経験になっているのは間違いないだろう。
しかし、我々はただの傍観者である。どちらのチームを応援するでもなく、サッカーを観ていただけなのだ。
必死に駆ける若者、応援する若者、支える大人達という主役達とは全く異質なところに存在していて、彼ら彼女らのストーリーには一切入っていくことができない。テレビカメラは内部に入り込むようだが、それは悪趣味に思えてしまう。例えば高校生カップルがデートでどんな会話をしているかとか、もしテレビで放送していたらそれは興味深いかもしれないが、非常に下衆なことなのは間違いない。そっとしておこうよ、と思ってしまう。
それは、彼ら彼女らのためのストーリーであって、ぼくには関係がないのだ。
一方で、Jリーグであれば、自分がチームを応援すると決めただけで、その瞬間からストーリーに介入し、参加することができる。そういう意味でプロスポーツは好きだ。一方で、学生スポーツは、主役である学生と関係者だけのものにして、放っておくほうがいいんじゃないかという気もしてくるのだ。
ところが、試合自体は面白かった
と、どこかの大御所さんみたいな小言を言ってきてしまったが、正直言って試合は面白かった。
準決勝
富山第一 VS 四日市中央工
前半1-1、後半1-1というある意味では理想的な盛り上がる展開。
1本の凄いフリーキックが決まったのが印象的だった。あれはどうやっても止められない。カシージャスだって無理だ。多分ね。
そして、PK戦を迎えるのだが、その直前にGKが交代する。周囲に座っていた人が「PK専用ゴールキーパーきたー!!!」と叫んでいた。田子選手はPK専用ではなかったという説もあるものの、見事にシュートを止めて勝利に貢献した。その後のガッツポーズが印象的だった。
準決勝
星稜 VS 京都橘
名古屋に内定が決まっているという小屋松選手を要する京都橘が、星稜の堅いディフェンスにきっちりシャットアウトされる。
京都橘の選手達は、次々と追加点を許し、絶望が迫ってくる中でも勇敢に戦っていた。
そして、終了の笛と共に泣き崩れる選手が目立った。大泣きしていたGKはプロになるらしい。「そんなので大丈夫か?」と思う気持ちも少しはあったが、素直に「頑張れよ!」とも思えた。
決勝
富山第一 VS 星稜
実に凄い試合だった。
前半、PKで星陵が1点を取る。「あ、スパイクが刺さった!」というのがスタンドからもよく見えた。
守備が高いことで定評がある(らしい)星陵にとっては貴重な先制点だった。逆に言うと富山第一にとっては不吉な影を落とす失点だった。
そして後半25分、なんと星陵が追加点を決める。
クロスをヘディングで合わせた得点で、思わず「お見事!」と叫んでしまった。
おかげで試合は詰まらなくなってしまった。残り20分強で2点差を詰めるのはかなり厳しい。2-0は危険なスコアというのは統計上はウソらしい。ぼくは富山第一の応援団の後ろにいたので、富山を応援している人が周りに多かったのだが、周囲の客席は何とも言えない重苦しい雰囲気に包まれていった。
しかし、後半41分。富山第一が1点返す。バックラインからの長い縦パスからFWが抜けて、クロスを押し込んだ。
この時、スタンドは総立ちになり空気が変わった。
その後、富山第一の応援にあわせて手拍子をしたり、声を出したりする人が何倍にも増えた。
ぼくの周りだけではなくて、ゴール裏のほうまで応援の波は広がっていった。1万人はいたのではないだろうか。
声援の量も段違いになった。
「何かが起こりそうだ」
そんな予感がした。
イケイケな雰囲気の中、波状攻撃を仕掛ける富山第一。そしてアディショナルタイムも尽きかけたその時にPKを得た。それを沈めて同点!!! 延長戦だ!!!
隣にいた女性は「あー約束に遅れるから早く行かないと…… 試合終わったらダッシュで駅に向かうね」みたいなことを仲間内で言っていたのだが、「延長戦!!こんな面白い展開、見ないわけにはいかない!!!約束は遅れてもいい!!!」などと前言を翻していた。それはそうだ。ここで帰るわけにはいかないだろう。
延長戦前半。
星陵の選手のロングシュートがポストに跳ね返された。あのシュートは本当に凄かった。あれが入っていれば、と蹴った選手はずっと後悔することになるのかもしれない。
そのまま延長戦の後半に雪崩れ込み、ロングスローを富山第一が押し込んで試合を決めた。
0-2から3点入れ替えして試合をひっくり返す。漫画のような展開だった。いや、漫画ですら没原稿になりそうなネタだと誰かがTwitterで書いていた。そのくらい劇的だった。
スタンドから見ていた感想としては、0-2を0-1にした時点で、流れは出来ていたように感じた。スタンドはそれを感じ取って声援に変えた。追われる星陵よりも、追う富山第一のほうがエネルギーが満ち足りた状態だった。戦術的にどうこうというのは、何の情報もなくスタンドから見ていただけではよくわからないのだが、どちらのチームがエネルギーを得ているのかは何となくわかる。
それでも逆転できるかどうかは時の運もあるから何とも言えないが、1-2にした時点で勝負は5分5分になっていたように思う。
「高校サッカーなんか見てどうするんだろうね。」なんて半歩退いた見方、いや、10歩くらい退いた見方をしていたぼくとしては、この試合のドラマには屈服せざるを得なかった。高校サッカーが面白いというのは認めるしかない。
満員の会場が持つ独特の熱気も良かった。
それにもう一つ面白いと思ったのが、プレーの精度の低さだった。クリアボールが真上に飛んでいって相手のチャンスになるのはよくある話だし、トラップが大きすぎるとか、パスの精度が低いなどの問題点が容易に見て取れた。良いプレイもあるが、ミスもかなり多い。十分な休養を取れない過密スケジュールの影響もあるんだろうと思う。準決勝よりも中1日で迎えた決勝のほうが明らかにミスが多かった。
ユース年代の選手に中1日とか中0日で試合をさせるのは良いこととは思えないのだが、ミスの多さを含めてサッカーを楽しめるのは間違いない。そういえば甲子園でも4点くらいリードをした場合でも、エラーが続いて一気にひっくり返されることがある。それと同じで、何が起こるかわからないという楽しみ方ができる。
やはりしっくりこない点もある
といっても高校サッカーが最高だと言う気にはなれない。
1チームしか勝ち上がることができない残酷トーナメントであるという点に、まずゾワゾワする。日本を担うサッカー選手を育てるという大義よりも、負ければ地獄で、ほとんど全チームがいずれ地獄に落ちるというアングルを用意し、地獄に落ちた人達のリアクションを見世物にしているという演出になんだか納得がいかない。
聞いてみると、スタジアムまで観戦に来ていたり、テレビで毎年視聴している人の中にも、演出については賛同できないという人も多いのだそうだ。
それがプロであればいい。ちゃんと報酬を得ているわけだから。しかし、学生にそれをやらせるのはどうなんだろうか。収益が全部、サッカー界の未来のために使われるということになるわけでもないだろうし。これは甲子園や、アメリカのNCAAでもそうなのだが、学生を見世物にして金を稼ぐことの大義名分はどこにあるのだろうかと考えてしまう。実際にNCAAでもそういう議論はあったはずだ。
一方で、学生としては、プロでもないのにプロと同じように注目されるという体験をすることができる。そういう意味では憧れる学生がいるのも至極当然だし、どうせやるなら注目されたいというのも自然な感情だろうと思う。
ただ、ぼくとしては、「注目されたければプロを目指せ」と言いたいところではある。高校生の間しか出れない大会に出場して、そこで注目を集めることが人生に目的になってはいけない。通過点としては良いが、最終目的のように考えてしまってはならないのだ。
もちろん、すべてが終わった後で、新たな夢を描くこともできるだろう。しかし、大切なのは夢が叶う前、夢が終わる前に、新しい夢を描いていることだと思っている。「高校サッカーなんか通過点だよ。だってぼくにはもっとやりたいことがいっぱいあるから」と言ってくれる方が「これでぼくのサッカー人生は終わりました」と言われるよりも気分がいい。
サッカー人生なんて、その後何年でも続けることはできる。
ぼくなんかは救いがないほどサッカーが下手クソだけど、自分はまだ現役プレイヤーだと思っているし、試合のときは全力を尽くしてプレイしている。まだぼくのサッカー人生ですら終わってはいない。趣味として楽しむことも出来るし、アマチュア選手だってできるし、指導者だって、ライターなどのメディア関係者にだってなれる。18歳の若者が「終わった」なんて言っちゃいけないし、そんなことを言わせちゃいけないと思う。
そしてもう一点。やはり、ロッカールームに入ったり、泣いているところを映したりするのは、あんまり見たくない。見てはいけないものを見たような気持ちになってしまう。全力で頑張った人が泣いているのを見るよりも、自分が全力で頑張りたい。ぼくはそう思う。
疑似プロ選手として注目を浴びることができるというエサを用意し、殆ど全てのチームが地獄におちるという残酷トーナメントを設定し、地獄に落ちた若者が泣いて悔しがるところを絵に収めて、見世物として売る。このモデルはあんまり好きになれない。
一方で、高校サッカー自体はとても面白かった。そこは認めないといけない。
「たとえ明日からサッカーができなくなったとしても、どれだけ大けがをすることになろうとも、最後の最後まで全力で走る」
という姿勢は、プロにはできないことだ。
あまり奨励するべきだとも思えないが、実際に目にすると心を奪われるのも事実だ。
しかし、高校サッカーに対するアングルが自分の中では釈然としなかった。
1つの救いは帰り道に
準決勝の2試合が終わると「うーん、高校サッカーはどうやって見るべきなんだろうね」そんな気持ちを抱えたまま席を立った。
帰り道は、例によって渋滞し門を出るまで時間がかかる。
そこで、すぐ後ろにいた子供達が話しているのが聞こえてきた。
「準決勝は、1試合目のほうが面白かったよね」
「いや、俺は2試合目のほうが勉強になった。星陵はボールの取り所をしっかりチームで意識してるのが良かった。」
「なるほど!!確かにあれは俺らもやらないとだな」
これはほんの一例。気付くとスタジアムには、小学校高学年から高校生くらいまでの若者がたくさん詰めかけていた。彼らは応援に来ていたわけではない。サッカーの勉強に来ていたのだろう。気付くと色んなところでサッカー談義をしている若者がいた。これはプロサッカーではあまり見なかった光景だ。
高校サッカーはプロに比べると、攻撃も守備もレベルが低い。これは当たり前のことだ。そして、1つも負けられない残酷トーナメントに巻き込まれているため、「負けない」ためのサッカーを徹底している。その結果、多くの学生プレイヤーにとっては、非常に参考になるようなのだ。
同じように残酷トーナメントに出場しなければいけないことも多いだろうし、競技レベルもプロと比べればはるかに近いところにある。
そうか、高校サッカーというのは、最初から最後まで若者のためのサッカーだったのか。
我々大人が見るためのアングルなど存在しない。あれは、子供達の中のスーパースターが参加する天下一武道会であり、我々大人達はその大会を「覗き見させて頂いている」にすぎないのだ。
準決勝の帰り道に、そう気付いたことで、決勝は素直に見ることができた。
若者達の一生懸命な姿勢に拍手を送った。
我々大人は、高校サッカーについて批判的なことを言うことは許されないのかもしれない。もちろん、運営をどうしていくべきかは、大人達が社会の大問題として考えて行く必要はある。しかし、選手や関係者などに対しては、拍手以外のものを送るべきではない。
監督が采配を間違えたり、選手がミスをしてしまったりすることもあるだろう。プロならば叩かれてもしかたがないが、高校サッカーの場合は違う。叩いてはいけないのだ。本来は観ることが出来ないものを観せて頂いた。そして、感動を、青春をお裾分けして頂けたのだ。
そのことに感謝を寄せ、大きな拍手を送るのだ。
そして、高校生達が、今後もっと大きな夢に挑戦していくことに対して、心からエールを送るのみだ。
感動をありがとう!
これからの人生で色々あると思うけど、頑張れよ!!
これからもきっと熱くて楽しい戦いが待ってるぜ!!!
(追記)
高校サッカーの裏側を取材し、感動を演出するという方法に対して、やや批判的な意見を持っていました。
そういった演出には問題点はあるものの、日本でサッカーが全く人気がなかった時代から、サッカーをテレビコンテンツとして成立させ、サッカー文化を盛り上げてきたという功績もあるという指摘もありました。
Jリーグが始まる前、日本代表戦ですらろくに放送されていなかった頃から、お正月の定番としてサッカーを定着させた功績は大きいとのことでした。
ぼくには知らない時代の話ではあるし、レジームが変わった今は、やはり修正するべき点もあるのかもしれませんが、功績が大きかったという点には大きく同意します。
(追記終了)