東大に11年在籍した後、タクシードライバーになりました

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2012年の記録〜サッカーと出会ったあの頃〜

2012年の記録 vol.1「研究(サッカー)へのモチベーション」

更新日:

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この記事では、大学院(東京大学大気海洋研究所)に所属していた頃に書いたブログ記事を引用している。偶然過去ログを見つけたらあまりの懐かしさに涙が出てきた。非公開にしたブログに掲載しておくのも寂しいので、時々掘り起こしてこようと思う。

素人の頃の文章なので荒削りではあるが、基本的には原文のまま載せ、補足を入れる。研究の細々とした部分は煩雑になるので省略する。

これは、ぼくがサッカーに恋し始めた時の記憶。
当時は32歳。研究生活に行き詰まり、何とか抜け出そうともがいていた頃。

波の音が聞こえる海のそばの研修寮で、何かに取り憑かれるように文章を綴っていた。




更新日:2012年6月11日
タイトル「研究(サッカー)へのモチベーション」

今週中に論文の初稿を何としても提出したい。
このいつまで経っても完成しない論文は呪いのようなものだ。さっさと終わらさなければ。

今日は午前4時半に起床。6時には研究所についてデスクに向かう。
本気で仕事したい時のパターン、Mode-Kawagucci発動。 サッカーまでに仕事をするをパターンのやつや!

※1 当時英語の投稿論文を書いていた。

※2 Kawagucci氏。サッカー部の先輩であり、ぼくにJリーグとプロレスとももくろを勧め続けた男(当時)。ブラジル本「Jornada」の前書きに登場!

11時までにブリブリと仕事を進める。やる気が高まりすぎて若干空回りしてしまっていた感はあるが、午前中に充分進めることができた。100点ではないが及第点だ。最も悪いときは何十時間もかけても一歩も進めなかったのだから、前に進めるだけで丸儲けと考えよう。

サッカーは広い第二グラウンドで8対8くらいの規模でサッカー。1得点を決めるも、広いコートと空飛ぶボールに戸惑いいまいち煮え切らなかった。 もう少し球の処理をしっかりできていたらあと2点は取れていたはずだ。

サッカー後はだれる。しかし、これは計算の上だ。だれる時間に単純作業をいれていたので、だれながらも少しは前に進めた。外に出て夕食をとり、いつものドトールで英作文を進める。だいぶ形になってきた。 現在23時。あと2時間か3時間頑張って、少し仮眠してまたもう少しやろう。

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(研究室の組織論が続くので省略)

時間があればこんど「後輩にどこまで教えるか」論をアップしたいと思っている。この研究室組織論的な投稿は、それで最後にしよう。

※3 大学院は教育組織でありながら、学生の教育は「先輩」が行うケースが多い。「先輩」が外れだと地獄をみる。教授が熱心に指導することもあるし、文句だけを言うこともあるし、何も言わないこともある。どれが一番幸福なのかはケースバイケース。

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ぼくはぼくらしく、ぼくのことばかり書くほうが似合っている。

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突然サッカーが面白くなった。
全く興味がもてなかったサッカーの試合がキラキラと輝いて見れるようになってきた。

なんだこれは。何があったんだ。

と、同時に研究と研究職への情熱が湧き上がってきた。
狂ったようにノートに人生の研究プランを書いた。

(以下研究についての未来の展望が続くが虚しいので省略)

そして、研究を進めるためには、まずサッカーに真剣に取り組む必要がある。
これはただの直感だが、サッカーに真剣になればなるほど研究も進んでいくような気がする。

どうしてか、サッカーは研究そのもののようになぜか思える。

並大抵の覚悟では研究を自発的に進めていくことなどできない。
いつしか、研究という言葉はぼくに不安や恐怖をもたらすようになった。
その不安と恐怖は、サッカーボールに姿を変えて、ぼくの前に立ちふさがっ
ていた。

そのボールは大きく、固く、そして重かった。
蹴り込むと足が痛み、ドリブルで操ろうとしてもいつも意図しない場所に転がって言ってしまう。その上、ぼくがボールを持つと様々な人が力技で奪い取りに現れる。

ぼくはサッカーをすることから逃げ始めてしまった。

コートに立ちたいとも思わなかった。

どうせ一番下手なのだ、いないほうがきっとみんなも楽しいだろうと。

昨年は、サッカーをしたいと思ったことは一度もなかった。

やりたくないが、たまにはやらないと居場所がなくなってしまうという消極的な理由でプレイしていた。

しかし、突然サッカーがしたくなった。

今こそ戦う時なのだ。

目の前のボールを思い切りゴールに向かって蹴り込む時だ。
フットサルコートに出没する暴れ猪のショルダータックルにも思い切りぶつかっていく時だ。

どれほど身体が傷もうが、一度二度のシュートではゴールできなかろうが、何度でも挑戦するべきだ。

このサッカーの下りを理解してくれる人が果たしてこの世に存在するのかどうか不安ではあるが、このまま書き残しておこうと思う。湧き上がる情熱と共に。

明日もサッカーに行こう。


構成はめちゃくちゃ、主張も筋が通らず意味がわからない。何が言いたいのかはよくわからないが、無謀にもサッカーによって未来を切り開こうとしたあの頃のことが生々しく思い出される。

もう何をどうすればいいのかわからなくなっていた。足掻こうと思っても、研究業界で何かをしていこうという気持ちにどうしてもなれなかった。

ぼくのいた研究室は、学生の発表に対して徹底的に駄目だしを行うことで、軌道修正をしようと考える。ぼくは教授に気に入られていなかったこともあり、酷い日は2時間も袋叩きにあった。今でも恨みに思うくらいだからそれは壮絶なものだったはずだ。

だから、ぼくは本気で教授を殺そうと考えたことすらある。流石に実行には移さないが、明らかに心は病んでいた。教授がいる世界で生きていこうという気持ちにどうしてもなれなくなっていた。

あの場所で生き残れるのは、どれだけ手ひどくモチベーションを下げられても、研究をしたいという思いが捨てきれないものだけで、それは教育ではなく「ふるい」なのである。実際に研究ポストは少ないので、仕方がない部分もあるかもしれないが、学生が幸福であることは犯罪ではないはずだ。

大学院は国家の最高位の教育機関であり、研究機関でもある。

しかし、駄目なところを指摘して痛めつけるのが教育と言えるのだろうか?そのような教育を行う大学院という組織は、果たして教育機関と言えるのだろうか? ここでは論じないが政治闘争の話ばかり聞かされて心底うんざりしていたのもある。

そんな中で、サッカーに活路を見出した。
全力でサッカーをプレーすることで、何とか未来を変えようとした。

そんなことで未来が変わるはずがないのに――。

それは現実逃避であった。ただの現実逃避であった。

当時は、「不安」と戦っていた。不安といっても、不安障害の不安で、当時医者にかかっていた間違いなく何かしらの病名がついていたはずだ。

また、夜は金縛りにあう日が多かった。精神がおかしくなっていたのだろう。酷い日は1時間に1回金縛りにあい、汗だくになって起きてしまうので、寝るのを諦めた日もあった。

何かを変えなければいけない。

しかし、3年間を既に研究に使ってしまったのだ。今更やめるわけにはいかない。そう思ったし、実際のところ自分の残した成果には誇りも持っていた。

ぼくが変えることが出来たのは、「サッカーに向き合う態度」だけだったのだ。それまで、やる気がなかったサッカーと本気で向き合ってみよう。そうすれば、きっと未来が明るく変わるはずだ。ここから研究もうまくいって大逆転できるはずだ。

ただの思いつきだ。何の根拠もない。

しかし、サッカーと本気で向き合った日々は、確実ぼくの血肉となっていった。

その軌跡が断片的に残されているので、掘り起こしてこようと思う。

未来を変えることを望み、真剣にサッカーと向き合い始めたあの日。

それから1年4ヶ月後――。

ぼくは、旧国立競技場に赴いた。

薄暗いコンコースを通り、スタンドへと続くゲートをすり抜けた時――。

サッカーが、本当に人生を変えてくれた。

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