まだ髪の毛は残っている。
家系的な宿命によって、一気に抜けてくるものかと思っていたが、案外無事だ。元から毛髪量は少ないタイプではあるが、著しい減少はない。
かといって、若さは急速に失われつつある。最近目がかすみやすい。もしかしたら老眼の前駆的な症状かもしれない。体力は落ちたし、ジャンプ力も20センチちかく落ちた。
36歳。
物書き界隈では若手ではある。20代の実力ある書き手というのは極めて少ない。文章とは人生を反映したものになるからだ。生まれたばかりの赤子には文章は書けず、成長していく中で、経験を積み、悲しさも、虚しさもうんざりするほど積み上げていく中で、文章は豊かになっていく。
老人は、空を見上げると泣く。
これを聞いたのはもう10年以上前なので正確には異なるかもしれないが、確か劇作家の南慎介が言っていた。
老人にとっての空は、若者にとっての空と違う。老人は、その空の下で、歓びと悲しみと共に、人生を積み上げてきたのだ。だから、空を見上げただけで、色々なことを思い出してしまうのだそうだ。
当時20代半ばだったぼくには、空を見て涙ぐむ老人のことは何も理解できなかった。
でも、今はちょっとだけ理解できるようになった。
先ほど、とある人物のプロフィールを覗いていた。
出身校の欄を見た瞬間に懐かしさと共に涙がじわりと湧いてきたのだ。
東京大学教育学部附属中等教育学校
東京メトロ丸の内線、中野新橋駅。東大附属中学の隣にある古めかしい建物の名前は「海洋研究所」。
宮澤賢治について卒業論文を書いた後、この研究所で「理系の研究者」を目指すことになった。
あの時の、あの場所を、いつの間にか思い出さなくなっていた。強圧的な教授も夢に出なくなって久しい。もうそろそろ定年かな?少しは丸くなっているといいんだけど。
海洋研究所の椅子で寝たことは何度もあるし、朝まで飲んだことも何度もある。恐ろしいプレッシャーの中、何度も何度もプレゼンテーションを作った。
思い出したくもないが、あの時の圧力があったからこそ、表現することが楽しくてしょうがない今があるのだ。
感謝――。感謝をするのは、ちょっと抵抗がある。もちろん、部分的には感謝の気持ちも大きいのだが、全面的に認めるわけには……。そんなことを思っているのは、ぼくの中にある若者の部分なんだろうな。
その時の教授は、大まかに言うと「イワシの研究の権威」であった。正確に言うと「レジームシフトと言われれる10年周期の気象変動によって、多獲性浮魚類の初期生残率が変動することによって魚種交代が起こる」みたいなことを提唱した研究者だ。
気候変動すると、魚の子供の「生き残り率」が変わるので、大人の数も減るというようなお話なんだけど、これ以上詳しく説明するのは趣旨を外すのでこのへんで。
研究について振り返るのは4年ぶりなので細かいことは違っているかもしれない。
1995年の論文は、それは見事なもので、我々学生は心の底から尊敬していたからこそ、発表の度に深く傷ついていった。そういえば、転がって泣いている人もよく見たなぁ……。
中学校の名前を見た瞬間に、色々なことが思い出されてくる。忘れていた感情が次々と湧いてくる。
最終的には憎しみと共にドロップアウトしてきた大学院だけど、最初は教授のことを心から尊敬していたことを思い出した。思い出してしまった。もう6年も前のことか。
あれほどの知性と長きにわたって向き合う経験は今後ないかもしれない。
ビジネスで出会う人は大抵「協調的」だけど、研究で出会う人は「戦闘的」なことが多かった。
「愛のむきだし」ならぬ「闘争心のむきだし」。
我々は多かれ少なかれ、剥き出しのナイフに傷つけられていた。だから、昼休みになるとはじけ飛ぶように隣にある中学校へと向かった。
校庭で、サッカー!!
ぼくは、あのグラウンドでサッカーを始めたのだ。ボールはやたらと跳ねるし、キープ出来ないし、蹴っても飛ばないしで、本当に難しくてストレスの溜まるスポーツだった。
そして、お偉いさんが蹴り飛ばしたボールが、サッカーコートの隣にある野球場へと転がっていくと、新入りのぼくは全力疾走して取りに行く羽目になった。
アルベルトとかフェリペとかいう名前の留学生がいて、あいつはシュートをやたらと撃つ癖に、絶対に自分で取りにいかない。パスもしなかった。
大苦手だったサッカー。でも、段々と好きになっていった。そして、研究からの逃避として、サッカーに向き合うようになった。
その後、本当に辛い時期が訪れる。その時、常に隣にサッカーがいてくれるようになった。
そして、サッカーのことがしたいというモチベーションがあったから何とか、命からがら研究室を逃げ出すことが出来た。
大学院生の自殺(未遂)は深刻な問題だが、ぼくもその流れの中に入っていた。身近にもそういう話はあったし、カウンセリングを受けなかったら危なかったかもしれない。
「逃げるは恥だが、役に立つ」
流行りのドラマにそんなシビアなタイトルをつけないで欲しいものだ。
ぼくは逃げてきた。その時の関係者には本当に申し訳ないとも思うんだけど、みんなに謝って回っていたら途中で力尽きていただろう。
最後に残った気力を振り絞って、苦しい時に支えてくれたサッカーやバスケのことを表現するという未来を思い描いた。
そして歩み始め、流れが生まれ、奔流となった。
それからは色々とうまくいって、著書も上梓することが出来た。
作家と名乗り、物書きとしての単価も上がった。このままでも上々だったんだけど、お嫁に行くことになりました。
2人目の子供が生まれるので妻が産休に入るため、「安定した月収」が必要だったこともあるのだが、「断続的な刺激」が文章を書くためには必要であったことも大きい。
朝起きて、お弁当作って、子供を着替えさせて、保育園に送って、戻ってから掃除をして、お迎えまでの間に文章を書く……。
書けません!!!
理屈はわからないけど、「主夫的」な暮らしをしていると文章を書こうという気持ちがあまり湧いてこないのだ。
だから、外に出て、刺激を受け、ストレスも溜めて、時には理不尽な思いをしたりすることがあったほうが、文章を書こうという気になるのだ。
今だって、早朝3時半に書き始めて、もう2時間も書き続けているのだから。
約1ヶ月の試用期間を終えて、小さな産休を挟み、3月より正式に契約社員となる予定だ。
はじめての就職。
契約の期限は、契約書上はない。ということは、パーマネントの職である。研究時代は、どうしてもパーマネントの席が見つからないので、みんな苦しんでいた。ぼくより10も上の先輩ですら、苦しんでいるのを見たのだ。
年齢的な水準からすると非常に安い給料からのスタートなのだが、ぼくにとっては十分すぎる。生活の糧を確保した上で、自分の書きたいことを存分に書く。
フルタイムの労働なので、時間の確保には苦労しそうだ。またあまりにも年齢差が大きすぎる学生さんのバイトとうまく付き合っていけるかという不安もある。
流石にそこまで離れていると付き合い方のノウハウがない。塾講師していた時の生徒は、今はいくつだ? 一番小さくても26歳、上は30歳。それよりずっと下の世代だから、逆立ちしてもよくわからない。
物書きとしてのぼくを尊敬してくれることはないだろうし、文章を見ても、その価値はわからないだろう。
最近で一番嬉しかった褒め言葉は、『STUDIO VOICE』の元編集長で、作家の佐山一郎さんから頂いた。
「慎太郎は、自分の文体も持っているし、芥川賞でも狙ったらいいんだよ。詳しい編集者、紹介するよ。」
お酒も入っていたので、多少は差し引くとしても、橋にも棒にもかからない書き手には絶対に言わないことだ。
だから、ぼくは芥川賞を取るためにはどうしたらいいのかを考えた。
「ライターとして食っていく」のではなく「芥川賞作家として生きていく」ためにはどうしたらいいのか。もちろん、賞を取ることだけが目的ではないが、そのくらいまでやらないと作家として食っていくのは難しいのである。
芥川賞では、「人物」ではなく「人間」を描ききった上で、文学を一歩先に進める必要がある。エンタメとして面白いかどうかは直木賞の領域なのだ。
しかし、困った。困り果てた。人間を描くと言っても、妻との会話と育児が中心の日々では、人間からの刺激が少ない。
ぼくの人間観は、まだ完成されていないのだ。再び世界に出て行く必要が生じた。
前回の芥川賞を取った村田沙耶香さんの『コンビニ人間』は、コンビニでバイトしながら休み時間にメモを取りつつ書き上げた作品である。
これだ。
そう思った。
そして、1ページだけ読んでみた。
吹き飛ばされた。
物書きとしての成熟度に、大きな差があった。ぼくには、ここまでの文章は書けない。今のぼくではとても届かない。
表現力の引き出しも、音律的な整合性も、迫力も、全部負けていると感じた。だから、1ページで読むのをやめた。
でも、これは才能の違いという話ではない。村田さんは、ぼくよりも2歳年上だ。でも、コンビニでバイトをしている。名だたる文学賞を穫っているのに、ワーキングプアーの象徴とでも言うべきコンビニバイトである。
嫌な思いをすることもあっただろう。しかし、彼女は、それをすべて創作へと昇華させていったのだ。詳しいことは知らない。しかし、そうに違いない。
それは、研究者がサンプリングをした後に、論文として結晶化させる作業に似ている。文学のサンプリングである。
ぼくは宮澤賢治には不満がある。
彼は東京に出て、東大のすぐ近くの印刷所で働いた。その中で、「子供を作る代わりに」童話を書きためていった。
繊細すぎる賢治にとって、都会での暮らしはストレスの塊であった。しかし、それを創作意欲へと転換していった。
しかし、賢治は岩手へと帰っていく。宮澤賢治の童話の多くは、東京で描かれた。だからこそ、懐かしい故郷が魅力的に描かれているのだ。
賢治が岩手に戻ったことを悪いとは言わないが、東京でのストレスと刺激を受け続けながら、作品作りに没頭し続けていたらもっとすごいものが出来ていたのではないかと思う。
宮澤賢治の全作品を読んだことがある人ならわかるかもしれないが、賢治の作品は「散らかったまま片付けていない」ようなものも多いのだ(未完の原稿を、死後に作品化したものも多い)。
それでも、十分すぎるほど魅力的なのだが、もっと突き抜ける才能があったことは間違いない
(。『銀河鉄道の夜』だって未完成なのだ。『銀河鉄道の夜』は、第1稿から4稿まであり、この作品を研究するためには、その推移から賢治が何を言おうとしていたかを検討していく作業が必要になるため、非常に大変。この作品から賢治を考えると、大きく誤る危険性がある。)
まぁまぁ、不満があるとわめいてみても、ぼくは賢治の足下にも及ばないだろう。天才と凡人の間には越えられない壁がある。
でも、挑戦はしたい。
死んだら新聞に載るようなロックンローラーにはなれないが、死んだ後も作品が読まれるような作家にならななれるかもしれない。
そのためには、受ける刺激を適切にコントロールする必要がある。心労が溜まって倒れない程度の、適切なストレス。それを受けられる場所を探す。
そういった基準で辿り着いたのが、3月より働く書店(ブックカフェ)であった。
ここでは、適切なストレスがある。一回りしたの学生から、侮られ、ののしられることもあるかもしれない。就職活動で地獄を見るよとか思いつつも、下に見られるということが滅多にない暮らしをしていたので、ストレスは感じる。
けど、怒ってはいけない。書店員として働くときは、作家としての自分は封印しなければいけない。優しく微笑んでいればいい(できるかな?)。
もし出版業界に就職して、社会人として前に現れたら失礼な言葉を許されないが、今はそういう筋ではない。ぼくは、36歳のワープアで、格好良くも、お洒落でもないから、バイトからは尊敬されないだろう。
いや、尊敬されてはいけない。
心地よい場所で、時給が欲しいのであれば、近所にいい働き口はいくらでもある。
渋谷の街で多くの人と出会い、話し、ぶつかり、苛立ち、時に殺意を覚えながらも、それを封じ、作品へと昇華させていく。
別に喧嘩はしなくていい。というか積極的に喧嘩はしないようにする。書店員は穏やかであるべきだ。一方で、作家としては戦闘的でいよう。
文章とは、戦闘的な行為である。
村上春樹もそんなことを言っていたが、そこももう卒業だな。
仕事を始める際に、わからないことは上司に確認していく必要がある。チェックリストを作ってみたら80項目にもなってしまった。一気に聞くと流石に大変なので、小出しにして、少しずつ確認していった。
この間は、穏やかな36歳書店員の顔を一瞬だけ捨てて、作家のほうを少しだけ出してみた。
どこまで自分を出せるか1度は試験しておく必要があった。
バイトには頼りないおっさんだと思われている穏やかな書店員、36歳。
業界では若手であり、強い野心もある戦闘的な作家、36歳。
顔が2つになったが、1つしかなかった今までのほうが異常だったのかもしれない。
正直言って仕事が楽しい。書棚の配列を考える。どの本が売れるかを考える。出版社の営業の人と話をする。
この間は2社の営業さんがいらして、10分程度立ち話をしたのだが、本当に幸せな時間だった。
「新米なもので不勉強なのですが、○○出版さんはどういったジャンルが得意なんですか?」
「それはですね!!うちは言われるヲタク雑誌が多くて!!」
嬉しそうな顔をして話始める。みんな本が好きなのだ。
この仕事を続ければ、多くの出版社に知り合いが出来るだろう。その中には、作家の顔で関われる機会も生まれるかもしれない。
出版関係者と知り合いになるために、お茶の水のバーに出入りする人が大勢いると聞いたことがある。それに比べると、なんて健全で、なんて幸せな立ち位置なのだろうか。
なかなか本が書けないことで、『サポーターをめぐる冒険』を出してくれた「ころから」さんには迷惑を掛けてばかりだけど、原稿を書く以外にも書店員として恩返しすることが出来るかもしれない。
もちろん、本が売れないと、誰にも利益が入らないので売れるように努力する。
サイエンスコミュニケーターみたいな立ち位置でイベントも出来るかもしれない。大学院をやめた直後はこういうことしようかと思っていたから。
中高生向けのイベントとかもやりたいなぁ。勉強しないとだな。
36歳。
子供はもうすぐ2人。
髪の毛はまだある。
年収は低いが、やりたいことはたくさんある。
いざ、新しいステージへ!!
そういえば、大学院をやめて物書きになることを決めたのも、子供が生まれる時だったな。
早朝3時から、4時間かけてBlog記事を書けた。Blogなので読み返したり、お洒落をしたりせず、このまま出す。文体も若干狂ってるけど、もう気にしない!
仕事の疲れとストレスがあるからこそ、物書きとしての充実した時間が持てる。
文章とは高貴な嗜みである。これほど楽しいことは存在しない。もっと色んな事が書きたい。
ああ、書きたい。
でも、二度寝もしたい。
写真は今度から働くお店。
「お洒落すぎて入るのが怖い」(ヤヌシ氏談)
「ここで働くならもうちょいいい靴買えば仕事来るよ。」(松田談)
「わー!!塗り絵がいっぱいある!こんなに揃ってるところあんまりないよ!」(54談)
まだぼくのカラーはほとんどないのですが、ちょっとずつ増やします。サッカー本は、ライターが嫌なやつのものは仕入れません。嘘ですよ、ふふ。