東大に11年在籍した後、タクシードライバーになりました

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物書きとして逆風に立ち向かうことについて。

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最近思うのは、怒りという感情こそ、最も尊いのではないだろうか。

怒る 怒る 怒る

憤怒の表情を浮かべて戦うこと。

それが答えではないだろうか。


抽象的にしか書かないが、とんでもない逆風が吹いてきた。
心身ともにボロボロにして、それでも飽き足らない。侵食の風、腐敗の風が暴れ狂っている。

この風は以前にも吹いてきたことがある。でも、その時は立ち向かわなかった。

ぼくは風に吹かれるままに進路をコントロールしようとした。

もう少し具体的に言おう。
やらねばならぬタスクが激増した時、タスクが多いからしょうがないなと思い、ぼくは文章を書く使命を捨てたのだ。

つまり、ぼくは物書きとして戦うことをやめたのだ。
物書きとしての誇りを捨て、風に舞うただの埃になった。

そして、一度使命を捨てたせいだろうか。そこからは、戦う気力を失った。くたびれたボロ雑巾になってしまった。

そこから気力を回復させるのに数ヶ月もかかった。

今でも後悔している。
原稿を待たせている人を、読者をずっと待たせたまま、物書きとしての覚悟のなさを晒してしまったのだ。何より、自分の覚悟のなさを見せつけられたのだ。

逆風に立ち向かっているつもりだった。一生懸命戦ったつもりだった。しかし、物書きとしては大敗北であった。その間に出した原稿は、どうしても魂が乗せられなかった。

その時の戦いを評価する者はいない。誰も覚えていない。それはそうだ。ぼくは物書きとして戦わなければ、何の価値もないからだ。

誰かが評価するとかしないとかいう問題が表出したとしても、それは本質ではない。

文章で戦わない自分のことなど愛せない。評価できない。価値を感じない。文章で戦うからこその自分ではないか。

逆風が吹いてくる。
「自分がやらないとしょうがない」とか「穴埋めとか尻拭いも大事な仕事だ」とかいう、大人の判断も当然持つべきだ。

しかし、怒りだけは持ち続けなければいけない。

あの時、時間がないとか、仕事が忙しいとかを言い訳にして、物書きとしての自分を捨てたことに対して怒り狂うべきだ。

今度は絶対に捨てない。絶対に諦めない。そんなことをしたら絶対に許してはならない。

誰かがどうのという話ではないが、人を憎まず、罪も憎まずという精神的態度は大切だ。また、人と会ったときには嫌な気分をさせないように、なるだけ柔らかく接したい。

だけど、内なる炎だけは消してはならない。怒りだけは持ち続けなければ。

時間は奪われ、身体は疲労する。
頭も疲労するから、文章もあまり鋭いものにはならない。
そう、この文章のように。

だから、心に怒りを満たさないといけない。
今、仕事が一息つけたことに安堵し、平穏な気分になってしまったら、このままのんびりしてしまうかもしれない。

この文章は、この2日間、あるいは10日ほど前から抱えていたある怒りに突き動かされて書いている。といっても、もう怒りはだいぶ薄れている。

ぼくは大人として、逆風に立ち向かわずに、うまく乗りこなすことが出来たからだ。ぎこちない乗り方ではあるが。その過程で、ある種の満足感は得られるし、頭も身体も疲労する。怒りは薄れる。

だから、この文章も気の抜けたソーダのようなものだ。名文でも美文でもなく、いいことも言っていないし、誰の約にも立たない。

しかし、それではならんのだ。

俺は物書きだ。
めったに使わない一人称の「俺」を使って表現したくなるくらい強く言わなければならない。

物書きとして家に帰り、物書きとして歯を磨き、物書きとして寝て、物書きとして目覚めよ。物理的に文章が書けない日もあるかもしれない。しかし、物書きとしての覚悟だけは二度と捨ててはならない。

書きたいものがある。
この世に残したいものがある。

もっと激しく魂を燃やし、その巻き上がる情熱のまま文章にしよう。

明日は物書きとして目覚める。
そして、必ず執筆時間を確保する。

ところで、我が家の長男、4歳児。
いつも優しいおばあちゃんに怒られたといって、窓に向かって体育座りをしながら泣いていた。大事にしていたものに落書きをしてしまったらしい。

ぼくは逆風に吹かれながら渋谷に向かおうとしていた。家を出る3分前に、息子の背中に手を置いた。

「何が悪かったか自分でわかってるよね。ちゃんと自分でごめんなさいをするんだよ。そしたらきっと許してくれるから。」

息子は無言でいじけている。

今日の午後。愛する息子はごめんなさいが出来ただろうか。

朝一で書き物をしたら、時間は短くても息子と遊ぶ時間を作ろう。

父としての感情と、逆風に立ち向かおうとする怒りは両立するものだろうか。

なかなか難しい。だが、諦めたくはない。

父であっても夢を狩る。

怒りに怒りを凝縮し、それを美しい表現へと昇華させるのだ。芸術を成し遂げるのは人の心の力である。技術でも、才能でもない。お金でも、身分でも、経験でも、SNSのフォロワー数でもない。

端的に言うと、怒れるかどうかで決まる。

これから、物書きとしてチキンケバブを購入し、物書きとして帰宅する。そして、物書きとして寝る。

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