『この世界の片隅に』について語りました。
先週からぼくが参加する自主運営のウェッブラジオ(ネットが繋がっていれば聞けるラジオ)ハトトカにおいて。つまり、音声チャンネルです。
音声しかないので、文字起こしして欲しいという声をアシシ氏などから頂いていたのですが、結構な大仕事なので二の足を踏んでいました。しかし、ヤヌシ氏が一晩でやってくれました!!
ハトトカのほうで公開しても良いのですが、あちらは文章を読むのに優れたレイアウトではないので、こっちに公開します。これを機に是非ハトトカも聞いて下さい!!
第七十三回『 ハトトカよ叫べ、この世界の片隅に。其の2 ”北條すずとは何者なのか”』 | ハトトカ いつかあなたと文化祭
ハト=ハトトカ文化祭実行委員長 = 中村慎太郎
五百蔵=シナリオライターのいほろいさん
実際は4人で話していますが、対談インタビュー風に文字起こししました。
正直わたし(ハト)はこの映画をうまく見れた自信がありませんでした。なので、中途半端ながら率直な意見を五百蔵さんにぶつけてみることにしました。
ハト : まずは、ぼくの問題提起から。後ろのエピソードは五百蔵さんの講釈中心になると思うので、今のうちに喋っておきます(笑 ぼくは、この映画と、うまくコミュニケーション出来なかったんですよ。一定以上の面白さがあったことを認めた上でなんですが、作者や映画監督がやりたいことについてどうしても掴みきれないモヤモヤ感を感じながら映画を見終え、「結局何を描きたかったんだろう」と感じました。その後、原作を読みながら「ああ、これか!」と、少しわかったんですけれど。
どうやらぼくは、主人公である「北条すず」のキャラクターが掴めなくて、その行動にある種の苛立ちを感じていたようです。この感覚は他の映画を見てた時にも感じたことがあり、その映画を思い起こしてみると「天空の城ラピュタ」でした。
五百蔵 : なるほど。
ハト : ぼくは意志をもって行動していくタイプの主人公が好きで、「受け身」なタイプは苦手らしいです。そして、「天空の城ラピュタ」の主人公パズーは、シータを助けに行くという行動を起こしますが、それもあくまでも「受け身」としての行動です。自分で何かを成し遂げようとしていないんです。「ラピュタ」は面白いとは思うんですが、強く共感できないのはこのへんがあるからです。
「この世界の片隅に」に登場する呉の人達もみんな基本的には「受け身」なんですよね。戦争映画では、「国のために倹約に倹約を積み重ね戦い抜くんだ」とか「女には女の戦いがある。千本針を縫うのが私たちの戦いなの。」とか言う人物が出てくることもありますが、『片隅』にはいませんね。
五百蔵 : 確かに普通の戦争映画ならそういった人物は出てきますよね。
ハト : 印象的だったのは、玉音放送を聞いた後に「あー、終わった終わった」と言っていた人物もいたことです。どうもそのへんの空気感に共感できませんでした。共感できないと言うよりは、うまく入り込めなかった感じです。
といっても、僕は「北条すず」という人物に興味が湧かなかったわけではなくて、どっちかというと北條すずは好きなんです。「すず」は表現者として描かれていて、表現の才能もある程度の欲求も持っています。
海のウサギの絵や、水原さんに対する共感とか、男の子に対する愛情を絵に乗り移らせる才能がありそれが県のコンクールの中でトップに選ばれるようなものすごい才能を持っているわけす。しかし、才能を磨くという意志を持たず、18歳には結婚し、その才能を浪費しているだけのように感じてました。そのへんが(同じ表現者を目指す者として)歯がゆいところです。
五百蔵 : ただ、すずは表現欲求が全くないというわけではないですよね。
ハト : そうですね。実際すずは帰省した際に「ハゲ」が出来たことを妹に発見されるというエピソードがあります。それは、義姉と合わないというのも一因としてあるのでしょうけど、「すず」は対人関係はある程度適当に流すことができる人物でもあるので、「ハゲる」ほどのストレスがあるわけではないと思いました。だからぼくは、「絵を描けない」というストレスがその一番の理由だと解釈しました。
そのすぐ後のシーンで、愛する広島の街をスケッチするという場面があります。そして、その後呉に戻ると、魂が抜けてしまうんです。義姉の小言も上の空という描写もあり、そこで「ああ、呉でも本当は絵が描きたかったんだな」ということが感じられました。
その後、呉でも「土地の絵を描こう」と思ってスケッチを始めると、憲兵から「貴様、間諜か!」といわれ、捕まってしまいますが(笑 このように、一念発起して表現をやっと再開しようと思ったのにもかかわらず、できなかったという状況もあり「表現者」としての道が閉ざされてしまう。
その後、闇市に砂糖を買いに行く場面では、水彩絵の具を見つけても値段を見てすぐあきらめます。当初、鉛筆に執着してたころと比して、表現意欲の減退が甚だしい状態が描かれています。
五百蔵 : 確かに、徐々に表現ができない方向に追いやられていますね。
ハト : あと、原作の話ですが白木リンと話す場面でリンが「子供を作って生きていくの?」と問い、すずが「だってそれが嫁の義務でしょ?」と答える場面があります。さらにリンが「それができないとどうなるの?」と問い、すずは「あれ?意外と楽しいのかな?どうなんだろう?」と考え込みます。
要するに、人から敷かれた「受け身のレール」に乗ること、相手の要求に応えることばかりを考えていて、自分がどのように生きていくのかを全く考えてこなかったわけですね。
五百蔵 : それは、昭和10年代当時の状況や時代感覚がとても大きいと思います。
ハト : そうかもしれないですね。もう1つ、すずの恋愛感についても、いろいろと思うことが多いです。
五百蔵 : ただ、そもそもすずは恋愛をしていないですよね。あの時代は好きな人と結ばれることがとても少なくて、お見合いで結婚するのが当たり前の時代だから個人の意思と恋愛は全く別のところにあることが多いです。
ハト : なるほど。この映画は恋愛についても描こうともしていないのかもしれないですね。幼馴染で海軍になった水原哲とのエピソードについても深く描こうとすれば描けたはずなのに描くことをしていませんから。
そういえば!
海兵である水原哲が北条家にきて納屋に泊まったときに、すずの夫である北條周作がすずに行火(あんか)を届けさせ、一晩過ごすように仕向け、納屋に鍵までかけてしまいます。その際にすずは抱き寄せられはしたけど、拒否をしました。あのシーンってどう解釈したらいいんですか?秀作は、兵士として命を散らそうとしている水原を尊重して妻を捧げたのか、あるいは旦那としての自身のなさが出たのか。
五百蔵 それはその両方です。この映画を見る上で非常に重要なのは登場人物を「現代人」でなく「昭和10年代の人」としてとことん描いていることです。
この時代の人がやらないことや、考えないこと、メタ視点でそのようには見ない、ということを絶対に描かないというルールで描写しているんです。だから、すずが「現代人」としてではなく「昭和10年代の人」の思考をもって行動しているようにみえるのは、彼女がまさに「昭和10年代の人」だからです。原作のほうはまたその辺は緩いんですけど。
そして、水原哲との納屋での夜の件は、特にこの映画らしい、様々な要素が含まれているとても良いシーンだったと思います。我々の日常感覚と違う点として、自分の嫁を兵隊さんに抱かせるのかというと、あの時代は抱かせるんです。
ハト : そうなんですか!抱かせますか!!
五百蔵 : 必ずしもみんながそうするわけではないです。しかし、そういうことは十分あり得ることです。死地に行く兵隊さんへのリスペクトとしてね。ただ、それだけで終わると戦時中の日常を切なく描いた普通の映画なのですが、そこで終わらないのが「この世界の片隅に」の味わい深い点です。
そもそも、夫である周作がなぜあれをすんなりやるかということは映画の中に答えがあります。この夫婦は周作が惚れてすずを探して連れてきて、初めからすごい仲がいいんですけど、なかなか子供ができないんです。
ハト : そうでしたね。
五百蔵 : そして、周作はいい歳なのに兵隊に行っていない。その理由として、彼が軍で書記官として働く立場というのもあるのですが、そもそも兵士になるには体力が足りないということが根本的な理由なはずです。
ハト : そういった描写はありあましたね。
五百蔵 : そういったことも影響して、子供ができない可能性がある。少なくとも周作自身はそう感じている。それにプラスして、兵隊が臨むのなら妻を差し出すことについていとわないという気持ちでもいる。そして、そういったことを全部すずは分かっているんだけど、とはいえ兵隊の水原が来たからといって本当に私を水原に差し出すのか、というすずの自我がふいに出てくるシーンです。
この感覚は、女性の感覚として正常な感覚であると言えます。つまり、「現代人」にとっても理解できるし、おそらく当時の人であってもそのように感じるのは普通であったであろうと思われます。つまり、当時の人たちのような抑圧された思考の中にすずは生きているけど、そこから外れた自我を持っていることがわかるシーンでもあるし、それについて周作も「ああ、怒るんだ」と気が付くシーンでもあるんです。
そのように、当時の人の気持ちもわかるし、今の私たちにもわかる気持ちもあるという、いろいろな「層」が重なっているシーンです。
ハト : 深いですね……。描写の仕方やシナリオの書き方について、男性の作り手であれば論理を積み重ねていく傾向にあると思うんです。つまり、一本の線を描いていくイメージなんですけど、この話、特に原作については、描写が複合的で絵や音やちょっとしたニュアンスに意味を込めているので、情報の洪水を起こしてしまいました。もしかすると女性のほうが感じ取りやすい作品なのかもしれません。
五百蔵 : そういった傾向はあるかもしれませんね。
ハト : ちょっと曖昧な話なんですが……。原作を描いた「こうの史代」さんは可愛く日常を生きている、センスのあふれる人と想像しました。それは「すず」の人物像と重なるので、「すず」本人が描いているような作品だと思いました。
原作者の人柄についてはよく知らないのですが、「すず」に自分を託しているということあるのだろう感じました。つまり、表現者としての自分を、です。だから、『片隅』は「表現者論」だというのがぼくの考えです。ということは、作者は『片隅』を通じて何かを表現したい、つまり、何か言いたいことがあるのだろうと思うのですが、どうしてかそこが明瞭にならない。ぼんやりした「すず」が主人公だからです。
といっても原作では、「表現者論」というテーマが前面に出ているわけではなくて、映画の方がそういった要素が強いと思います。たとえば、空襲を受けるシーンです。高角砲の色付きの爆煙が赤、青、黄色と空に舞うのを見て、すずは「これを私が絵にできたら」と言います。これは原作にはない表現でした。表現者としての「すず」のキャラクターが際立った部分です。
五百蔵 : 確かに、映画ほど丁寧に描写されている場面ではなかったですね。
ハト : 映画では「表現できない表現者の苦しみ」のようなものを言いたいのかなと感じました。
さらに「北条すず」について深く読み解いていきたいと思うのですが、すずはその後、意志を発していくようになっていきます。具体的には、まず広島から帰るときに荷物置き場で周作と喧嘩するシーン。その次が、周作が3か月仕事でいなくなるシーンで「こんなに細い体で家を守れるかい」といわれ「無理です!絶対無理!」と言います。
そのあとすぐに「嘘です」というんですけど。「無理です!絶対無理!」というのは、とても強い表現です。すずは、周作に見初められて結婚はしたものの、本来であれば男の思うがままになるようなタイプではないと思うんです。頑として自分を曲げない性格なんだろうなと思いました。ぼくも似たタイプだから思うんですけど。
「すずの意志」の話を深めます。「すず」は、その後右手を失います。右手というのは絵を描いていた手、それをもって人とコミュニケーションをしてきていた手でもありました。
それまでは心情描写があまりなかったのですが「左手で描いた世界のように歪んでいる私」というようなモノローグも出たり、「うちは強うなりたい、優しうなりたいよ、この町の人たちみたいに」という台詞があったりと、「すずの心情」がにじみ出てくるようになります。右手と姪の晴美ちゃんを失うことで、戦争に初めて向き合うようになり、感情が爆発するようになっていきます。
五百蔵 : 特に玉音放送を聞いた後の叫びが印象的ですよね。
ハト : そう! あそこを見て、なんだこれはとわからなくなったわけです。五百蔵さんは、すずが登場した冒頭の「よいしょ!」のシーンで、この映画がどのような映画なのかを瞬時に推測することができたとのことですが(ハトトカ片隅、其の1参照)、すずが最後に爆発することについても予想できましたか?
五百蔵 : すずの変化については全く違和感はありませんでした。なぜかというと、すずが絵描きであるというのにも関連しています。
すずは昭和10年代当時の人間として描かれてはいますが、人間としての本質としては現代である我々と変わりません。つまり。自分の目の届く範囲の幻想の中でしか生きていないわけです。すずの登場シーンで感じたのは、この子は戦争が起きていることを知らないままに生きるんだろうなということです。
ハト : 戦争が起きていることを知らない……。確かに、そのように生きていました。
五百蔵 : そのことは、彼女が絵描きであるというモチーフが結びついています、彼女が絵を描くことができなくなってから、実際の現実と向きうようになることも関連しています。つまり、彼女は初め個人の現実の中のみを生きる「セカイ系」の人物であったのです。表現者もしくは芸術家である「すず」にとっての個人の現実とは何かというとその人が見るものしか現実ではないということ。
だとしたら、その個人の「幻想」と「現実」は何が違うのか。
ある個人の見た現実と他の人が見た現実が異なり、他の人からすればある個人が見た「現実」は「幻想」かもしれない。ただ、個人にとっては、「現実」も「幻想」も自分が見たものとしては、何も違いはないのです。
「現実」も「幻想」も等価であるということになります。彼女は、このような「個人の現実」の中を生きる「セカイ系」の人物であり、それを彼女の中で支えているシステムが「絵描きである」ということです。
彼女は自分のキャンパスの中のことしか見えない人物であり、右手を失ってから愛国女子に変化したのは彼女が右手を失ったことで、自分の幻想を担保するシステムを失ったことによって、「現実」にいやおうなしに気づかされるわけです。
ハト :そうか。絵が描けなくなって初めて、世界に戦争が存在することに気が付いたわけですね。妄想することが不可能になったと。
五百蔵 : 玉音放送を聞いた後の叫びで、すずが言及したようなことは、他のみんなはだいぶ前からわかっているわけです。当然、すずの義姉達も。
ハト : 他の人たちは、戦争はずっと現実として存在していた。だから、敗戦することもずっと前から覚悟出来ていたわけですね。
五百蔵 : そう、他の人たちは、自分の中で整理がついている状態です。ただし、すずさんはそうではない。右手を失って初めて戦争を実感して、自分のキャンパスの外のことを理解した。だから、このタイミングでの爆発になったわけです。
ハト : 「すず」の兄がなくなった際にも同じような描写がありましたね。ちなみに原作では、死んだ兄のことをコメディ的な漫画として描くのですが、映画ではなかったですね。
五百蔵 : 原作は全く違う編として入っていましたけど、映画は物語の補強材料として入れる形になっていますね。ただ、私はそのことによって原作以上に「表現者の映画」というテーマに焦点を絞れていると思います。
ハト : ふむふむ。映画の終わり際に象徴的な場面がありました。右手を失った母親の孤児が、すずをみて「お母さんに似てる」と思い、「すず」になつきます。すずはその子を引き取り、「この後も強く生きていこう」と誓うというような締めになっていたのですが、ぼくはこのへんで「表現者論というテーマからずれたのでは?」という違和感を覚えました。
あと、細かいんですがラストで水原さんが生きて帰ってきたのかどうかも、描き方が幻想的なので現実なのかよくわかりませんでした。
五百蔵 : この映画は情報量が多いため、何度見る人が多く、実際に何度も見たほうが楽しめる映画だと思いますが、「この時代に生きた人の振る舞いに嘘をつかない」ということを徹底しているために、そのルールを知らないとわからないことが沢山あるんです。
現代人にとっては分かりづらい振る舞いでも、当時の人にとっては通常の振る舞いであるならば、説明する必要がないので描かないとしている箇所があります。
水原については、実際に生きて帰ってくるという描写で間違いないです。それは、水原が「青葉に乗っている」からです。それは、知っている人にとってはそれだけで、「水原は生き残る可能性が高い」ことがわかるのです。
ハト : そうなんですか???
五百蔵 : そう、意味があっての青葉なんです。青葉は軍艦が好きな人にとっては有名な船で、日本の駆逐艦は終戦までにほぼ沈んでるんですけど、青葉は数少ない最後まで生き残った船なんです。
ハト : 私は、あの最後の登場シーンをみて「ああ、水原さんは亡くなったんだ」と思っていました。そうか、なるほど……。
もう一つ、映画の幻想的な表現として解釈が難しい場面として、エンディングで「右手」が画面隅に登場してバイバイするシーンがありました。あれはどういった意味だと思いますか?全然わからなかったのですが。
五百蔵 : あれは、すずさんが新しい人生にシフトできたので、「右手」がバイバイをしたんです。「右手」は彼女を、「幻想」と「現実」の仕組みの中で、ある意味では縛りつけてきたものです。
その右手がなくなって、彼女は現実に気づかされたのですが、そのことによって辛いこともありました。「女の子」と出会えはしたけれど、その子も原爆症になる可能性はぬぐえない。妹の浦野すみも原爆症で死んでしまう可能性が高い。
ただ、「右手」がバイバイしていることが象徴するのは、「すず」がそういった辛さに折り合いをつけることができる段階になったことを意味していると言えます。
ハト : そういえば、呉の人たちの多くは広島に支援に行った中、すずだけが行くことが許されませんでしたね。ということは、すずは原爆症にはなる可能性が低いということがわかります。
『この世界の片隅に』は、原作や歴史を詳しくしらずに映画だけ見ていると、置いていかれてしまう厳しい映画でもあるようですね。次のエピソードでは、原作と映画の違いという点からこの作品を読み解いていこうと思います。
【Keywords】
北條すず/この世界の片隅に/天空の城ラピュタ/受け身/意志のある主人公/風の谷のナウシカ/空から女の子/動機/表現者/絵を描けないストレス/白木リン/「現代人」でなく「昭和10年代の人」/表現者論/戦争が起きていることを知らないままに生きる/セカイ系/「幻想」と「現実」は等価/沈まなかった青葉/右手
というわけで読んで頂いたのが、ハトトカでの文字起こしです。ハト、つまりぼくと、五百蔵容さんの技量の違い、論理力の違い、作品に対する解釈の深みの違いをご堪能頂けたでしょうか。ぼくにとって、五百蔵さんと語ることは、最高の喜びの1つです。この愉しさを少しでも世界に伝えたいがために、ハトトカにお招きして語って頂いております。
北條すずは絵を描くことで、現実を見ないで済んでいた。しかし、絵が描けなくなったことで、現実を見る羽目になった。戦争に負けていく日本という現実を。
これがわかっていなかったという意味で、ぼくは映画をちゃんと見れていなかったということになります。本を読むさいに「速読法」というものがありますが、あれと一緒ですね。読んでいるけど、読めていない。情報をなぞっているけど解釈出来ていないし、心に刻みこめていない。
五百蔵さんのおかげで、『この世界の片隅に』がもっと身近な映画になりました。ハトトカの音源が公開し終えたらもう一度見てみようと思います。多分、次は涙で前が見えなくなると思います。
ハトトカの『片隅』シリーズは、予定通りならば「其の7」まで続きます。年度末のヤヌシさんが血を吐いて倒れない限りは、其の6くらいまでは文字起こしして展開していきたいなと思いますが、最速で公開されるのは音源です。
是非ハトトカホームページやYoutubeから聞いてみて下さい!!
其の6、危険な映画としてのこの世界の片隅に、は必聴です。
なお、五百蔵さんが登場した「シンゴジラ」シリーズも、大変好評です。『片隅』音源が出来るまで、是非そちらも併せてお聴き下さい。
ハトトカ ~いつかあなたと文化祭~
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