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物書きのアイデンティティは危機に瀕しているべきなのか

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文章は書ける。

書く気になる。

あんまり褒められることもなくなったけど、それは一定以上の水準で書けているからだろう。

安定感。

昨日の夜にblogを書いていて気づいたのだが、ぼくは幸せで充実しているらしい。だからこそアウトプットにも安定感はある。

ただ、生まれたばかりのブロガーさんのほうが、文章が下手でも刺激物としては優れている。人生の大逆転を賭けて書き物をしているわけだから、映画的なスリルを味わえるのだ。

このblogを書いている人間は、明日死ぬかもしれない。そういった感覚を覚えるから、刺激物なのである。

ジャンクなホラーであり、サスペンスなのである。

一方、ぼくは死なない。

もう物書きとして、ある程度確立しているし、家族がいるからだ。だからまぁ、文章を読んでもスリルは感じないということになる。

ただ、ぼくの文章が世に出始めた頃は全然違っていた
はずだ。

ぼくは明らかに、人生のすべてを賭けた状態で書いていたし、いつ倒れてもおかしくないような緊張感を持っていた。

必死に戦い抜いた結果、ぼくは生還した。

伝説の秘宝を手にして、戻ってくることが出来たのだ。

次の山を登るべきだったのかな?

次はもっと死にそうな山を。

ただ、その先にあるのは死だけだ。死ぬまでやるしかないのである。

ぼくは子供の成長を見守りたいので、死ぬわけにはいかない。

だから現状で勝負する必要がある。

現状とはいっても、ぼくの手には伝説の秘宝がある。

完全なゼロではない。

とはいえ、一度秘宝を捨てて、アイデンティティを危機に晒されている状態を擬似的に作り出すことは重要なのだろう。

そのほうが、アウトプットがスリリングになる。しかし、本当に死に体の攻撃をしていると、幸運の神様が逃げていってしまう。

またナルシシズム的に、攻めに酔うのも駄目だ。ナルシストは批評させるステージでは通用しない。

他人にかぶれて、他人の毛皮で勝負するのも駄目だ。物書きは、たった一人の貧弱な個人であるべきだ。

本当に命がかかった戦いを何度もするべきではない。最大で一回だ。あとは勝てる勝負だけをしていくのが覇者の道なのである。

文章は不器用で地味な表現である。

しかし、変幻自在で、味わい深い表現でもある。

そして、読み手の脳に直接浸食していく影響力の強い表現なのである。

絵や音楽はあくまでも抽象イメージなので、脳が受容するためには、言語化し理解することがある程度必要だからだ。

それは、可愛いとか、すごいというような原始的な言葉であることも多いがとにかく言葉なのだ。

大人気ミュージシャンだって、ほとんどはボーカルを入れている。インストゥルメンタルでも理解できるのは、言語化が出来る知的な個体か、感覚的に理解できる脳を持つチャンネルがちかい個体だけだ。

言葉は強く、言葉は怖い。

物書きは、戦争兵器の製造工房と変わらない。

だからこそ、安定するべきではあるが、歯止めのない未熟な戦争兵器からは目が離せなくなるのも、また人の世の常なのである。

北朝鮮に世界が注目するのと同じ理屈である。

国家衰亡の危機に陥るのはいいことではないが、擬似的にそういう心境になるのは、有効だろうと思う次第だ。

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