自由な夢を見ながら不自由を直視し、惜しまれながら死んでいく英雄に憧れる。


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自由な人生を夢見て、文筆業やブロガーやフリーランスを目指す。そんな若者が周りにあふれている。それはとてもいいことだと思う。

若いのだからやりたいようにやればいい。この記事は、誰に向けているものかよくわからないが、強いて言うならば若いときの自分に向けて言っているのかもしれない。

望まない場所に居続けるよりは、自由な夢を見たほうがずっと楽しく生きられることだろう。しかし、それは「今」とか「1,2年先」のことを考えるなら、である。

このような生き方は、バックパッカーと一緒だ。「華やかな青春、惨めな老後」である。

バックパッカーという名のキリギリスさんが、海外へと繰り出し、華々しく旅や恋を楽しんでいる時、同世代のアリさんたちはせっせと働いて、保険を積み立て、住宅ローンを払っている。

いずれ冬は訪れるのである。

そして、旅は、人生を保証してくれない。

旅とは一種の逃避だからだ。

もちろん、逃避ではなく、攻めの旅というものもあるのかもしれないが、それは旅ではなく仕事であり、出張であるというほうが正確なように思える。

いつだったかテレビ番組で見つけてしまったことがある。

青春を謳歌し、海外を飛び回った元バックパッカーが、生活保護だったか、何かの障害だかになって、生気のない顔をして薄暗い部屋で生活しているところを。

バックパッカーをしているから、必ずそうなるわけではないが、自由な夢を見るだけでは、その先には何もない。

ブロガーは不思議と旅をしたがる。ブロガーの生き方はバックパッカー的なのもあるし、書き物のネタに困らないのもあるのかもしれない。

ただ、成功しているブロガーは、自由とは遠い。自由に見せていることもあるが、自由を縛る鎖でがんじがらめになっている。あるいは、そうしている。

自由な人生とは何だろうか。

銀行員の友人は、平日は野球部で練習し、飲みに行くと結構なお値段のものを軽々と食べ、二次会は奥様にばれないように夜のお店に行き、休日になると家族と旅行したり、釣りにいったり、ゴルフに行ったりしている。

買いたいものはなんでも買えるし、子供にも何でも買ってあげることが出来る。これは不自由な人生だろうか?

現代では、多くの人が自由を求めるようになった。だから、自由の国アメリカは現代で一番の巨大コンテンツになったのだ。

憧れがあるからこそ人が集まる。頭脳も集まる。金も集まる。ネイティブの血が染みついた大地からは、染みこんだ分だけ油やガスが湧いてくる。

今、世界で最も価値のある言葉は自由だ。なぜならそれは、王者アメリカの価値観だからだ。自由を求めて仕事を辞めるという行動を若者が取るのもアメリカのせいだ。これは暴論だろうか?

マック野郎も、アンドロイダーも、アメリカの奴隷、自由の奴隷だ。これも暴論だろうか?

ぼくは暴論とは思わない。そもそも奴隷になることすら悪いとは思わない。生きるというのは何かの奴隷になり、無条件に従うことだ。我々善良な市民は、国家が定めた法律の奴隷であり、社会的常識の奴隷である。

何が自由で、何が不自由なのだろうか。そして、自由こそが最も価値があるという思想には根拠があるだろうか。

よく言われることだが、日本人は自由の価値をよく知らない。だから、自由を踏みにじられてもデモやストライキを起こさない。封建制や絶対王政の中で、不自由に苦しみ抜いた経験から、血を流しながら自由をつかみ取ったわけではないからだとされている。革命を経験していないのだ(明治維新は革命ではなく、忘れかけてたマイレボリューション)。

本来的には、どれだけ叩かれようが、世界中が敵に回ろうが、やりたいと思ったことをやり通すべきだ。それが自由というものだ。

そして、今の時代に自由に生きるべきなのだ。自由を求めることに抗っても意味がない。暴力的なまでに自由を求めるべきだ。

それは、江戸時代に武家の子として生まれたのに、親の意向に逆らって自由に生きようとするくらい意味がないことだ。


Choose your future, choose your life.

自分で人生を選び、生き方を選べ。

何十回も観た映画『Train spotting』の主題となる言葉である。

人生に何を望むのか。

最新式の洗濯機。

低コレストロールと健康。

単なる暇つぶしの日曜大工。

マイホームにレジャーウェア。

固定金利の住宅ローン。

くだらないクイズ番組、ジャンクフード。

腐った身体を晒すだけのみじめな老後。

出来損ないのガキにもうとまれる。

だけど、本当に望むものは何だ?

俺は人生に何も望むことはない。

俺は別のものを望んだ。

理由か?

理由などない。

ヘロインだけがある。

自由を求めた結果に待っているのはヘロインかもしれない。いや、ヘロインなんて上等なものは買えないかもしれない。もっと惨めで、もっと酷いものが待っているかもしれない。

それを覚悟で自由を選べるだろうか。

もし選ぶなら、我武者羅にやるしかない。

祝杯をあげよう。ついに解放されたのである。何かの奴隷であることをやめることが出来たのだ。そして、喜ばしいことに自由の奴隷になることが出来たのだから。

ぼくが25歳で、独り身であったならば、何も思い悩む必要はなかっただろう。いや、今だって悩んでいるわけではない。

今、ぼくは、幸せだからだ。

なぜなら、文章を書く時間が増えたからだ。

ここまで自由について書いてきたが、実は自由であるかどうかは幸福の尺度ではない

自由になった時間で何が出来るかが幸福の物差しなのである。

旅をしたい人もいるだろう。しかし、その人が旅によって幸福になるかどうかはわからない。

旅先で就職するのが幸福な人もいれば、旅先でジャラジャラお金を払って豪遊するのが幸せと感じる人もいる。

自由を夢見るのは愚かなのだ。それは旅人になりたいという願いと同じくらい愚かだ。

自由になりたいのではなく、自由になって何がしたいかを語るべきだ。

旅がしたいのではなく、どんな旅がしたいのかを語るべきだ。

ぼくの場合は、文章を書くことが「手段」ではなく「目的」であることに気づいた。文章を書いて何かを成し遂げたいのではなく、文章を書いていたいということだ。

良い文章が書けるような人生が送りたい。文章のために人生を積み上げていきたい。

人生における最大のミッションは、気持ちよく文章を書き続けられる状況を作り続けることだ。

自由に生きることではない――――。

自由であろうが、不自由であろうが、文章が書いていられれば幸せだ。といっても書いていたところで不幸せなこともある。

ウェッブライター時代のように、「主婦にとっての洗剤の悩みを1000字以内で12本、3日以内に納品して下さい。」という依頼を、右から左へと流すだけの毎日は望まない。

あれは文章なのだろうか。文字の連なりという意味では文章と言える。しかし、ぼくに言わせれば文章ではない。

ぼくにとっての文章とは、自分の人生が表出したものだ。自分自身を文章へと変換していくこと。これがぼくの人生の目的だ。

だから本質的には、書いたものが読まれなかろうが。、売れなかろうが関係ない。どうでもいいことのはずだ。それはまた、別の問題なのである。

それでも、なるだけ人に喜んでもらえるような形に仕上げる。この文章のようにどうしようもないものもあるが、それでも3回は書き直してしている。

どうしてそうするのかというと、やはりチヤホヤされたい、評価されたいという気持ちがあるからだろう。ここは葛藤であり、矛盾であり、アンヴィヴァレンツである。

刑務所暮らしや入院生活には少し憧れる。文章を書くことに専念できるからだ。

しかし、文章を自己満足に終わらせてはいけない。

自分の思うことを、自分の望むままにやっているだけでは、活動が低レベルに終わってしまうからだ。

他者の批評があるからこそ、研ぎ澄まされた文章は生まれる。批評を経ない限りは、保育園のダンスコンクールで終わってしまう。親から見れば非常にかわいらしいが、プロのコンテンツとはいえない。第三者はわざわざ見に来ない。

自由に書いていくためには、不自由を味わい続ける必要もあるかもしれない。夏目漱石の最後の小説『草枕』の冒頭を読んでみると、こんなことが書いてある。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
(略)
あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。

住みにくき世から、住みにくき煩を引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。

「住みにくき世から、住みにくき煩を引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写す」 

夏目漱石が最後にたどり着いた境地の一つが、「この生きづらい世界を直視し、その生きづらさを抜いたものを描くのが表現」なのである。

表現の夢を見るとは、この不自由な世界を直視すること。

この不自由さに苦しむこと。不自由さ、つらさを感じること。

不自由のない場所へと逃避することではない。

最後に家族について書く。

ぼくは、家族がいるから逃避することは出来ない。不自由だ。そう思っていた時代も正直ある。しかし、家族は幸福を与えてくれる。居場所や存在意義を与えてくれる。新鮮な喜びも与えてくれる。いつも近くにいてくれて、時には愛情を与えてくれる。あるいは受け取ってくれる。

家族によって、ぼくは大きな恩恵を受けている。

一つは「孤独で魅力的な自分」を表現しなくていいということだ。それが悪いものとは言わない。それだって立派な表現だ。

しかし、薄っぺらい。若いときの一時代しか通用しない。

『Life is beautiful』という映画を観たことがないなら観てほしい。自由などかけらもない強制収容所で、家族のことだけを思った優男の生き様を見て、家族とは制約ではなく、人生そのものだと悟ることが出来る。

ぼくは自由に文章を書いていたい。それがぼくの幸福だから。

そして、それ以上に、ぼくの文章によって、家族や友人たちも幸福にしていきたい。

そのためには良い文章を書く必要がある。良い文章には優れた企画力と汗かきが必要だ。

汗かきとはパースピレーション。天才とは1%のインスピレーションと、99%のパースピレーションなのである。

もしぼくが、容姿端麗で独身の24歳だったならば、たくさんのファンがついたことだろう。しかし同時に、「ファンはぼくの表現を見てくれない」というビートルズシンドロームに悩んだかもしれない。

今のぼくは36歳。もうすぐ37歳。人生は半分くらい終わっているかもしれないし、オスとしての魅力も乏しく、頭もそれほど切れなくなってきたし、それほど多くの人に好かれることもない。

そんなぼくの文章を読みに来てくれるということは、本当に嬉しいことだ。ありがたいことだ。

ぼくはぼくではなく、ぼくは文章である。

だから、文章になるような生き方をしよう。

そして、その方向性に向いている限り、いかに不自由に見えようが、貧相に見えようが、ぼくの魂は自由だ。

拝啓 親愛なるあなたへ

ぼくは文章です。ぼくという存在は文章だということはわかりました。

ところで、あなたは何ですか?

映画ですか? 
裁縫ですか? 
音楽ですか? 
父ですか? 
母ですか? 
銀行員ですか? 
SEですか? 
Mr.Childrenのファンですか?
サポーターですか?

あるいはそのいくつかでしょうか。

探していますか?

まだまだ探す気ですか?

それともぼくと踊りますか?

夜は短し歩けよ乙女。自由に生きようと欲するならば、常に自問しなければならないテーマなのである。

とはいえ、答えが出ていなくとも、戦う君の歌を笑うことはない。

戦っているならば、答えはきっと奥の方。あなたの中に見つかるはずだ。

危険なのは、自分が何かもわからずに、自由でいたいということだけを目標に生きること。

もっとも、それが功を奏すこともあるだろう。

ああ、複雑かな人生。

もう半分は終わってしまったが。ぼくはずっと生きて、ずっと人生を送っていたい。

そして、思ったことを綴っていきたい。

惜しまれながら死んでいく。英雄に憧れながら。


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