身勝手なマゾヒズムと向き合う態度としての逃走と闘争


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これ、駄目だな。この原稿。
それすら気づけないくらい頭がショートした状態で書いたからしょうがないといえばしょうがないか。もう少し没頭しないと良いものが書けない。

浅い。

深く、深く、深く。

とりあえず、浅いものが書き連ねてある場合には、浅いところは浅いところで活かしつつも、深いものを付け足して調整すればいい。それは難しい作業ではない。時間さえあれば出来る。

ただ、ぼくには時間がない。
いや、時間があっても出来なかったのだから能力が足りない。
いやいや、能力は足りているはずだ。そこは自身を持っていこう。

ということは、やる気が足りないのである。気迫が足りない、殺気が足りない。

昨日は、久々に自分と向き合う思索の時間を取った。
勤務時間前にカフェによって、カフェラテを飲みながら。

しかしながら、このカフェラテがまずいんだ。温まった牛乳の上に泡がのっているだけ。豆の質も良くないので香りもいまいち。こんなにまずいとは……。

手前味噌だけど、BOOK LAB TOKYOで自分で入れるカフェラテは値段はもっと高いけど、味は何十倍もいい。

しっかりとフォームしたミルクと、芳醇な香りがするエスプレッソ。フォームしたミルクの特徴は、小さな気泡がミルク全体まで行き渡っていること。そのおかげで、飲みくちがフワフワしている。また、その泡にエスプレッソがいきわたっているので、ほろ苦い口当たりで、コーヒーの香りが口中に漂い、ミルクの甘みが最後に残る。

ミルクの甘みを残すのも、泡を行き渡らせるのも、それなりに難しいわけだけど、やるだけの価値はある。劇的に美味しくなるからだ。

これだけ美味しいカフェラテが提供できているということは、ぼくの仕事は間違っていないと思う。これから何杯の飲み物を飲むことになるかはわからないが、その1杯1杯を以前よりも大切にできるようになるだろう。

コーヒーも、ハイボールも、ジントニックも美味しいし、ハートランドビールも、ウェストマールもある幸せな場所。

何の話だっけ。そうだ、カフェラテがまずかったんだ。
だけど、自分の中での思索をしっかりと進めることが出来た。

ぼくはなぜ文章など書いていたいのか。
何のために?

何がしたいのか?

サッカー界のためとか、バスケ界のためとか、人の幸せのためとか。
出世のため、ちやほやされたい、自己顕示欲とか。

そういうのは全然ないことに気づく。いや、少しはあるが、自分の人生に「執筆」という苦行を組み込まなければならないほどのファクターではない。

自問自答を続けると答えが出てきた。

ぼくは単に成長したいだけ。自分に水を上げて、自分に光を与えて、自分を成長させたいだけ。成長した結果どうこうしたいという欲望もあまりない。単に大きな樹木に成長したいだけなのだ。

文章を書く行為を続けていくことが、今の自分にとっての一番の投資になっていると感じるからこそ文章を書き続けたいのだろう。

筋トレは好きじゃない。どうせ衰えると思っているからだろう。あれは今気持ちよくなるためにするものだ。これはぼくの認識であって、考えが違う人もいることだろう。

刹那ではなく、永遠を胸にいだき、文章を綴り綴ることで自分の意義を見出す。

それは誰かのためではない。自分のためですらないかもしれない。
お金も、名誉も何も手に入らない。
充足感もなく、常に追われ続けているという意識を感じる。

ああ、つらいつらい。フランドンの豚くらいつらい。これから食肉にされる豚くらいつらい気持ちだ。そんな日常を続けている。

でも、そのつらさのなかで、呵々大笑するのが、ぼくの人生の快楽なのかもしれない。家族を巻き込み、友人を巻き込み、読者を巻き込み、世界を巻き込んだ究極のマゾヒズム。

文章を書くのをやめたら、さぞ気が楽だろう。
何にも追われることなく、楽しく笑って暮らせるのだから。

しかし、追われ続けていないと生きている実感が湧かないとしたら?

ぼくに出来ることは、全力で逃げ続けること。

あるいは

振り返って、剣を構え、大声を張り上げて迎え撃つこと。

Escape?

or

Battle?

逃走と闘争。いずれの行為もカロリーを必要とするし、いずれの行動をするときにもアドレナリンが多量に分泌される。

座して死を待たず。必死に逃げるか、必死に戦う。その先に何があるかなんて、どうでもいいことだ。

右脳を起こすだけではなく、アドレナリンも噴出させて書かないといけないんだな。ぼくはそういうタイプなのだ。


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