物書きのチーム論が育児に着地する雑記。


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ブログを書く時間がない。
じっくりと練って書く時間が捻出できそうにないのである。

そんな時間があるならば、4歳児と遊んであげるべきだし、乳児の世話をして妻の負担を少しでも減らすべきだ。
あるいは、休養にあてるべきだ。2月半ばの第二子出産から疲れが抜けた記憶がないのだから。

いやいや、それ以上に書籍原稿の執筆にあてるべきだ。
今書いている原稿はとても順調なのだ。ブラッシュアップは大いに必要だが、熱のある面白い文章が書けているように思える。

編集者が優秀であるということは、アウトプットの質だけではなく、アウトプットしようという気力にも関わってくるらしい。

以前、超売れっ子作家の方と会ったことがあるのだが、社会性という意味ではちょっと怪しい感じであった。しかし、周囲を有能な編集者が固めていて、サポートしているのである。

売れっ子ではなくなり、編集者がいなくなった時にどうなるのかという問題はさておき、サポーターとしての編集者が作家のストレスを軽減し、作家は文章に集中する。

金銭を発生させるビジネスの上でも、あるいは読者に良い文章を届けるというサービスの上でも、効率的なシステムだと感じた次第だ。

ぼくは孤立していた。
一人でやらなければいけないし、一人でやるものだと思っていた。

社交性の高い人だと間違われることもあるが、ぼくは人見知りの引きこもり気質な人間なのである。単に社交スキルが高いだけで、打ち解けると性格が悪いのがばれるのでよろしくないのだ。

性格の悪さというよりは、江戸っ子的な口の悪さと、自尊心の高さだろうか。

相手との間に一線を引く。というよりも、絶対に飛び越えられないような谷を設定する癖があった。谷を挟んでもコミュニケーションが取れるという意味ではなかなかの能力なのだが、谷などないほうが話が早い。

人と人の間には深い谷がある。同様に、作家と読者の間にはさらに壮大な裂け目がある。それはそうだ。相手はぼくのことをよく知らない。生い立ちも、声も、顔も、においも、表情も知らない。知っているのはそこに書いてある文章だけである。

しかし、深い溝をを飛び越えるのが作家の仕事なのである。どれだけ遠くに離れていようと、どれだけ深い溝があろうと、瞬時に飛び越え、すぐ隣で語っているような気持ちになってもらいたいのだ。

今までは、編集者など制作サイドの人間も、「向こう側」にいるものだと思っていたらしい。
だけど、製作サイドは「こちら側」なのである。

元々は「向こう側」にいたのに、谷を乗り越えてわざわざこちらまで来てくれたわけだから。

個人プレーで荒野を切り開いていく「呂布」のようなタイプの作家もいるが、ぼくはそこまで強くない。チームにいないと生きないし、チームがないとモチベーションが上がらない。そういうタイプだということを痛感した。

絶望と失意と共に愛したバスケチームをやめたとき、ぼくは二度とチームを組むことはないと思っていた。そう思い込もうとしていたのだろう。しかし、気づくと周囲にはチームが出来てきた。

Jリーグ企画のチーム、バスケ企画のチーム、ハトトカ、そして、新しい職場BOOK LAB TOKYOのチーム。家族もチームと言ってもいいかもしれない。

新しい職場は、業務上の大変な課題はいくつかあるにせよ、非常に環境が良い。また、若くモチベーションが高い人が揃っているので刺激が得られる。

この刺激は、老いたクワトロ・バジーナ大尉(赤い彗星のシャアの別名)が、カミーユ・ビダンに感じた気持ちに似ている。才能に溢れているが自分のコントロールが出来ないカミーユに、思い切りぶん殴られる。

空中を吹き飛ばされた状態でクワトロはつぶやく。

「これが、若さか……」

機動戦士ガンダムの初期作品については、若さと老いが重要なテーマになっていた。若い頃はわからなかったが、もうすぐ36歳で、1回り以上若い人と一緒に仕事をするようになって、ガンダムがより深く感じられるようになった。

今なら小説だって書けるだろう。この今の感触があれば小説だって書けるはずだ。逆に、これを知らずして小説など書けたわけがない。

クワトロ・バジーナは起業家となった。
ジオン軍の将校から、在野の活動家になり、最後にはネオ・ジオン軍を起業した。

そういう意味ではぼくもいつか起業をしてみたいというような気持ちがちょっとずつ湧いてきている。渋谷という街の魔力かもしれない。もっとも、起業なんかしたら余計に書き物をする時間は失われてしまうだろうし、どんな商売をしようというアイデアもないので、やるにしてももっと本格的なおっさんになってから。

今は、書店員としてフルタイムで勤め上げ、自分の作品を残して世に発行していく。それだけが目標だ。育児というテーマもあるが、こっちは別口。

育児は何の得にもならない。
最近妻がよくいう言葉がある。どこかで聞いてきたらしい。

「子供は3歳までにすべての親孝行を終える」

どういうことかというと、3歳になるまでの可愛さだけが親にとっての利益であって、後はマイナスしかないという考え方なのだ。もちろん、厳密に言うとそうではないと言いたくなるが、心構えとしてはとてもよくわかる。

育児をいくら頑張っても誰も褒めてくれないし、得にもならない。子供に感謝されるわけでもない。

では、なぜ育児をするのか。

それは、自分の子供を愛しているからで、自分の子供が幸福な人生を送れることを祈っているから。それは、「ホストにつくす女性」と同じような理屈だ(心情的にも、社会的な文脈的にも大きく異なるが)。

自然界において、育児放棄はそれほどレアケースではない。親にとって一番優先されるのは自分の生命で、エラーがあったときには育児を中断することはよくあることだ。

これも心情的にはわかる。投げ出したくなることもある。なったことがないパパさん、ママさんは育児が天職だろうと主う。

なんで育児をしているのか。それは愛する人が出来てしまったから。惚れた弱みってやつですよ。

「パーパッ!!!みーてっ!!!」

目をつぶると、大音量の「耳鳴り」がする。

「パパー!!!パパー!!!パパー!!!!みーて!!!みて!!!みーーーーーーーて!!!!!」

4歳児はもう親孝行を終えてしまったのである。昨日は仕事終わりで抜け殻のように疲弊して、寝っ転がりながら上の子を見て、泣き止まない赤子を抱っこ紐に入れて散歩した。

2ヶ月の娘は、ムスッとしたような表情をしているんだけど、これがまた可愛い。上の子に偏らないように、2ヶ月の娘にも色々話しかけるようにしている。

「パパはねー いろんなお仕事してるのよー。大きくなったら表参道のおしゃれカフェにいこうね。カプチーノを飲もうねー」

こんなことを言っているとすぐに眠ってしまう。2ヶ月くらいでも、自分が関心を持たれているかどうかの感度はあるし、音も十分に聞こえている(上の子は、お腹の中でパパの声を聞いたと証言しているくらい)。意味は伝わらなくてもとにかく話しかけることが大事。

ああ、そうなのです。だから時間がないのでございます。

時間はなくてイライラすることもあるが、時間があってもイライラしたことに変わりはないので、執筆の熱意が十分に確保できている今は幸せと考えるべきなのだろう。

20代のときみたいに徹夜出来たらいいんだけど、今そんなことしたら死んでしまう。

とまぁ、昼休みを2回使ってこんなブログ記事を書いてみたが、書いているうちに子供と遊びたくなってきているぼくは、どちらかというと育児が好きなタイプなのかもしれない。

というわけで、勤務に戻る。明日は一人棚卸し(助っ人あり)という恐ろしい業務が待っているので、今日の夜はのんびりしよっと。


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