ブ・ログ24時間耐久2016

文章について。20代の夜、誕生日の過ごし方。【ブ・ログ24時間耐久②】

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5時42分。まだ空は暗い。
部屋は冷たく沈み込んでいる。

ブ・ログ24時間耐久、最初の投稿は、ノートパソコンからであった。
しかし、エンターキーが取れ掛かっているため、正直言ってストレスを感じた。

ストレスは取り除くべきなので、一番使いやすいパソコンの前に座ることにした。デスクトップの前である。
写真でもアップすればブロガー的な優しさに繋がるのだが、今日は一切写真を使いたくない。タイムロスになるからだ。

写真を撮る。写真をパソコンへと送る。色合いの調整などをする、レタッチというやつだ。そのあと、サーバーにアップロードする。ブログ上に貼り付ける。ブログ上でのサイズを定める。前後の文章を工夫する。

写真を掲載するには、この7工程が必要になる。
文章を読ませる、というよりも、Blog記事を読ませる上で、写真は非常に重要である。だから、写真は使うべきだ。何であっても載っているほうがいい。

しかし、今回の趣旨には反する。ぼくはただ単に文章が書きたいのだ。文章を書きたい、書けるまで書いていたいという欲望だけがぼくを突き動かしている。


とはいえ、読みやすくするためには、思いついた時だけ横棒でもいれよう。


そして、書き疲れてきたら写真を入れるのもいいだろう。


今回は20代の時の誕生日について書きたい。

ぼくの20歳代は、あまり人にもてなかった。
女性はもちろんのこと、男性にもあまりもてなかった。

自分の中で決着がついていないことが多すぎて、自信がなかったのだろう。中学生の男の子のように傷つきやすいくせに、それを隠すために強気で振る舞っていた。

ある種のエンターテイメントの才能だけはあったのだろう。そして、自らが担い手になろうというする気概だけはあった。だから、時折イベントごとの主催者には手を上げた。

大学で新入生歓迎合宿の代表をやってみたり、バスケチームをはじめてみたり。

あの頃もっとモテる人間だったら人生は明るい方向へと進んでいっただろう。

それは、大きい企業に就職したり、士業の資格を取ったりして、それなりの年収を得ること。いい車に乗って、住宅ローンを払い続けるような生活である。ちょっと想像力が不足しているのだが、恐らくその手の暮らしがいい暮らしなんだろうと思う。

貧困な想像はさておき、ぼくは20代の時にこんな誕生日の過ごし方をしていた。

祝ってもらうのが嫌いだった。サプライズの誕生日プレゼントなんか大嫌いだった。
そもそもぼくはサプライズというお仕事が全般的に嫌いだ。あれは暴力だと思っている。

暴力にならないように、繊細に心を張り巡らせることと、結婚式などのサプライズが起こることが想定されている場所で行うべきことなのだ。

誕生日のサプライズをしてもらうと、途端に機嫌が悪くなってしまう。
本当に嫌いなのだ。あれを喜ぶ人もいる。他者から愛されていることを実感したいのか。いや、あるいは、その瞬間に自分が「主役」になったことに感激したいのか。

そういう感覚はぼくにはなかった。
ぼくは常に「主役」であったからだ。一歩も引くことはない。常に主役なのだ。

もちろん、役柄上、脇役を務めることもあったが、意識の上では常に主役であった。気位が高かったというべきなのか、自我が強かったというべきなのか。

祝われることすら、あまり好きではなかったかもしれない。それは本質的なことではなかったからだ。そう感じていたのだろう。この年になると、祝ってくれようとする気持ちが嬉しいとか、ありがたいとかいう気持ちにはなる。

しかし、そこまで充足しないのは相変わらずなのである。

ぼくは、真の充足を知ってしまった。
本当に楽しい、本当に素晴らしい一時を知ってしまったのだ。


最初に作った表現の場は「鳩ノ巣」というホームページであった。大学の授業でHTMLを習い、興味を持って何日か独習した後、ホームページを開設した。

最初に書いた記事は、飲んだくれながらホームページの開設作業をするというものであった。何の飾りもないが、面白おかしく日常を描写するという、自分らしい文章であったようにも思う。

それからは「鳩ノ巣」を更新し続けた。今ほど整った文章は書けなかった。下手クソであった。しかし、文章を書きたいという情熱だけはあった。それは、大学の講義がつまらないとか、サークルにうまくなじめないとか、彼女もいなくて退屈しているとかいうネガティブな動機から来るものでもあった。

しかし、それ以上に、文章を書きたいという後ろ暗いまでの情熱があったのだ。

書きたい。書きたい。書いていたい。心の鬱屈も、くだらない人生も、空虚な身体の内側も、すべて文章で埋めてやりたい。ぼくには文章が詰まっていて、世界には文章が溢れていることを証明したい。

とにかく書いた。多い日は一日に10記事以上書くこともあった。良いものも含まれていたと思うが、基本的には悪文というステージにすら達しない、文章未満のことばの羅列であった。

しかし、言葉を羅列することが出来ることは歓びであった。それは、音楽なのだ。ことばは音であり、文章は音楽である。

良い文章は美しいせせらぎのようにいつまでも心に残る。悪い文章であっても迫力があればいい。ギターウルフの音楽と一緒である。

ラウドなギターをかき鳴らし、ビートを刻むことができれば音楽として成立するのである。下手クソでもいい。情熱さえあればいいのだ。

「環七フィーバー!!!」である。

とにかく書きたくった中で、高尾山に登った時のこと、スキー場のリフトの上で刑事を得たこと、大学受験について書いたことは、友人達の間で高い評価を得た。

そういえば、野球部の男やまっすんはいつもコメントをくれたな。大学時代に受けたどんな優しさよりも、書いた文章に対するコメントのほうが嬉しかった。

野球部は、こういった。

「おまえ、プロになれるんじゃないか?才能があると思う」

開成高校出身、坊主で、デリカシーの欠片もないやつだ。どういうわけか馬が合ってよく一緒に遊んでいた。

詳しいことは覚えていないが、衝撃であったのだ。ぼくの文章は人の心を動かすことが出来るらしい。ぼくの書いた長い大学受験記は感動的であったようなのだ。

野球部だけではなくて、同じ事を言ってくれる人が他にもいた。

誤字脱字は多く、論理も、ウェッブ上でのレイアウトも整っていない。ただ単に迫力だけがあった。人生を、それまでの貧相な人生を、過剰に装飾することもなく、そのまま、そのままの勢いで叙述していく。

この文章に何の意味があったかわからないが、ぼくの人生を狂わせるという意味では大きく貢献してくれたように思う。

ああ、そうだ。これを読んで受験勉強を頑張って、慶応大学に合格することが出来たというコメントをもらったこともある。

確かに。

そう、確かに――。

ぼくの文章が人の人生を変えたのだ。何かを変えることが出来る。何かを動かすことが出来る。文章とは特別な物なのである。

検索してみたら恐ろしいことに、かつての東大受験記がまだ残っていた。データを消し忘れていたらしい。今さら読まれることもないだろうが、ネットゲーム関係の日記なども多量に含まれているので恥ずかしいのでリンクは載せられない。

偉大な作家として名を残したらこのへんのものも研究対象になるのだろう。大学生が「中村慎太郎の初期ウェッブ記事における思想形成の過程に対する考察」みたいな卒論を書くのだ。確かに研究材料にはなると思う。

研究の材料としては十分な量があるし、卒論の努力賞に値する程度の分量はある。

ああ、この東大受験のやつを焼き直して世に出したいのに。うまく文章が書けなくなってしまったのだ。どうしてだろうか。情熱が消えてしまったのだろうか。うん、それもあるかもしれない。中途半端に成功したおかげで、足が止まってしまったのだ。

Jリーガーになった途端に献身的に走れなくなる。
これはメンタルの問題と言えばそうなのだが、それほど単純なものではない気もする。
いいんだよ。サッカー選手と違って定年はないんだから、止まってもいい。また走ればいいのだ。

よし、走りを再開しよう。


ホームページに文章を書きたくっていた頃、誕生日はこう過ごしていた。

ビールを2缶。
つまみとなる肉類を少々。コンビニで売っているスモークタンのようなものでもいい。
後は赤ワインを一瓶。

ぼくは部屋に籠もる。
暗い部屋で一人、テレビはつけたまま……。というのは大嘘でテレビはつけない。

お酒を飲みながら一人パソコンにむかう。
そして、酔いつぶれて寝るまで延々と文章を書き続ける。そしてホームページやブログへと更新していく。

どんな反響があるかなんて気にしたこともない。ちゃんとアップロードされたかすらもよくわからない。
自分が思うこと、感じることを、文章という形に変える作業そのものが好きなのだ。

内容を伝えること、誰かに影響を与えることは、副産物としてはあるものの、主目的ではなかった。

一番大切なのは、自分と向き合うこと、自分の中から溢れてくる言葉を音楽へと練り直していくこと。これが気持ちが良いのだ。

こんなものは商業にはならない。音楽で言うとジャムセッションのようなものだ。わき上がる音の泉が、偶然重なり合うのを楽しむのである。

どのくらいの量を書いただろうか。今よりも負の衝動が大きかったので、それなりの分量になったのではないかと思う。あれが一番気持ちの良い誕生日の過ごし方だった。赤ワインが脳天まで浸した後、ぼくは絶頂に達したように眠りにつく。他者の介在は不要である。

これはマスターベーションなのだろうか。

古舘伊知郎は、「実況は最高に気持ちが良いマスターベーション」と語っていた。だから、マスターベーションであったとしても、問題はないだろう。そもそも、他者が存在する性交というものは、どちらかというとサービスするというほうに力点が置かれる。そうじゃない人もいるかもしれないし、その人は幸せなんだろうとは思うが、ぼくの流儀ではない。

他者が目の前に居ると、その人にとって不愉快なことは出来なくなるし、その人が喜ぶように努力しないといけない。しかし、その努力は、どれだけ積み重ねていっても自分へは帰ってこない。

これは貧困な発想かもしれない。
他者の幸せがあってこそ、初めて自分も幸せになれるとしたほうが、成熟した人間の意見としては妥当であるだろう。

しかし、どう考えても「一人芝居」のほうが自分自身は充実する。自分のために書いた、自分だけの文章なのである。

今も同じようなノリで書いている。いくら書いても疲れることがない。本当に気持ちが良い。

文章とはこうあるべきなのだろう。
文章に情報を入れ込むな。意味を持たせるな。
文章を売ろうと思うな。文章によって人から評価されようと思うな。
自己への愛を呼び起こし、愛すべき自分を埋めるためだけに言葉を紡ぐのだ。

愛とは所詮自己愛の果実なのである。

文章を書くことを思い出そうと思ったら、愛を思い出さなければいけない。

異性愛としては貧困な20代を過ごしていたが、逆に考えると濃厚な自己愛に包まれていたと言えるかもしれない。

言葉があるおかげで、ぼくは生きていける。
言葉を吐き出すことが何よりの歓びなのだ。
何の意味もない。趣味ですらない。
排泄ですらもない。そこまで、生理学的な意義はない。

文章とは何なのか。

衝動、なんだろうな。ぼくにとっては。毎日のルーティンワークとして取り組めるようなものではない。ぶちこわしたい。破壊したい。台無しにしたい。消えてしまえ。なくなってしまえ。大嫌いだ。ふざけるな。冗談じゃない。殺してやりたい。

そんな先にあるのが文章なのだ。それでいい。そうあるべきだ。

ブ・ログ耐久2016② 執筆時間54分
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